ブラック・ジャックの素『ジキルとハイド』の最終回があまりにあまりなことになっていて、おくちあんぐりの絶望書店主人でございます。
これはやはりとてもテレビでやるようなしろもんではございません。アングラ映画館あたりでこっそりと上映するのにふさわしい。そんな怪しげな処で昔観た『フリークス』なんかよりは遥かに強い衝撃を受けました。
アイコン屋のこのページに画像が少しだけあるのですが、残念ながらあまりブラック・ジャックには似てない貌が載っています。ジキルとの左右合成シーンもずれたものが載っていて、ぴったり重なった部分はありません。まあ、ビデオキャプチャーを買うこともなく勝手にリンクを張る当方とは意図が違うのですから、致し方ございません。
ハイドは妙なスタイルのコートを着ているのですが、その全身を観れば誰もが頷くほどそっくりです。とくに大勢を相手に立ち回りをするシーンなんかはそのままだと感じられます。
最終回は「気狂い」なんて言葉が連発されてそのまま流されていたのですが、一カ所だけ松尾嘉代のセリフが消されておりました。いったいどんな凄いことを叫んでいたのか、どうにも気になりますのでお判りの方は教えてください。
ラストは「誰でもがハイドの部分を秘めているのかも知れない」といったこの手のお話にはありがちの問い掛けで締めていたのですが、さすがにこの丹波哲郎ほどデーモニッシュな狂気を持ち合わせている奴はいるかい!と想わずブラウン管に向かって突っ込んでしまいました。
いや、ひとりいるとすれば、それは手塚治虫その人でありましょうか。
ぼーぜんじしつになってしまった頭を整理しようと石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』を読んでいて、「ロボットは成長しない」というのが『鉄腕アトム』の中心テーマであることを想い出しました。生涯のテーマであったメタモルフォーゼに反するふたつの作品が手塚治虫の代表作となっているのはなんとも皮肉な話です。
石上三登志さんによると手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。
また、『火の鳥』の最後は『鉄腕アトム』になる予定だったというかなり確実な話がありまして、手塚さんは宇宙を支配する神秘の力の手を借りてまでもアトムを成長(メタモルフォーゼ)させたがっていたのでしょうか。あるいは、成長しないロボットと對峙させることによって、メタモルフォーゼする生命の神秘を逆照射させようと目論んでいたわけでしょうか。
こういう『鉄腕アトム』へのこだわりと比べて、『ブラック・ジャック』のあつかいはなんとも不思議な気もします。
ロボットとは違ってこちらにメタモルフォーゼを持ち込むのはなんの問題もない、いやむしろ手塚治虫お得意の二重人格(メタモルフォーゼの一種)を授けるのが自然なはずなのに、ブラック・ジャックもピノコもいかにもな設定でありながら絶対に変身しないのです。かなり意識的にメタモルフォーゼを避けている。両極の性格は二重人格の如く変身によって切り替わるのではなく、ドストエフスキー的にひとつに融合している。それでいて、アトムのように作者に嫌われることもなかった。
メタモルフォーゼの殿堂・虫プロ倒産から手塚的二重人格の典型『三つ目がとおる』開始までの一年間は、手塚治虫最大の危機で誰もが再起不能だと考えていた時期です。すでに過去の人だった手塚さんが少年誌でヒットを飛ばすなんて想像もできなかったし、借金は莫大な額でした。結局すぐに二大ヒットが出たわけですが、この期間さすがの手塚さんにも心境の変化があったのか、『ジキルとハイド』オープニングの左右合成された丹波哲郎の貌の衝撃がそこまで強かったのか。
手塚さんは時代ごとにいろんな作品から影響を受けていますが、ここまで根本的に変革を迫られるほどの力をおよぼしたのは丹波哲郎の貌だけだったような気がします。単なるテクニック上のことではなく、当時の絶望的な心境に共鳴したからでもありましょうか。あるいは生命に對峙する役だったからなのでしょうか。
『手塚治虫の奇妙な世界』を読んで「ロボットは悪いことができないので不完全」というのが『鉄腕アトム』のもうひとつのテーマであることを想い出しました。アトラスという悪い心<オメガ因子>を持った完全なロボットがいたことも。
手塚治虫のテーマに反することによって、『鉄腕アトム』はきっちりとテーマを逆照射するようになっているのですな。また、いろんな意味で作者の思惑を超えてしまった『鉄腕アトム』を制御したいという欲求を手塚さんは持っていたような気もします。<愛人>であるアニメに通ずるところもあるし、案外メタモルフォーゼ的と云えなくもない。
その点で観ても『ブラック・ジャック』というのはどうにも特異な位置を占める作品と云えましょう。
『手塚治虫の奇妙な世界』は成長しないアトムについて一章割きながら、成長とメタモルフォーゼとを結びつけておりません。また、手塚治虫の重要なるモチーフとして二重人格についても一章割きながら、アトラスともブラック・ジャックとも結びつけておりません。
その点、掘り下げが浅いとも云えますが、持ち出す視点がおもしろく、こねくり廻していないぶん好感が持て、これが手塚研究書として最初のものらしいですけど一番優れているように想います。それに引き替え、あたしのやっていることはどうにもよろしくはございませんな。
米沢嘉博さんなんかは「手塚治虫は解釈を誘うようなトリックを作品中に意識的に埋め込んでいる」といったようななかなか穿ったことを云っておりまして、あたしもその罠に掛かっていろいろ云っているだけかも知れませんが、まあ想いついたものはしょうがありません。
『ジキルとハイド』みたいに観たあとただ唖然と言葉を失っているばかりでも面白くはありませんからな。