東京の国立劇場では毎年2月に近松門左衛門の世話物中心の三本立てをやってるのだけど、今年は近松半二の『奥州安達原』を併演していた。近松の世話物を三本続けて観るとへとへとに消耗するので、これはありがたい。
『奥州安達原』の三段目はほんとにもう素晴らしい出来で、作劇として完璧だな。前回述べたような近松の世話物の息苦しくなるような完璧ではなく、あらゆる意味で完璧。ギリシア悲劇なぞ問題にならん。
一人遣いの素朴な人形と舞台機構に向けて書いた近松門左衛門と、現在と同じ三人遣いの複雑な人形に向けて書いた近松半二とでは当然ハンデがあって、劇作家としての力量は甲乙つけがたいが、現在の文楽で観る限りに於いてはやはり近松半二が最高と云わざるを得ない。世界的にも文楽&近松半二という組み合わせを越える完璧なる作劇はほかにあるまい。
近松門左衛門が歌舞伎から文楽に転じて近松半二までの60年間は文楽の黄金時代で、傑作が立て続けに上演され観客があふれ、「歌舞伎はあって無きがごとし」とまで云われた。
60年と云うと短いようだが、手塚治虫の『新宝島』が出版されて現代まんがが始まってから今年で55年、そのあいだアニメだけになって実写の映画やテレビドラマがなくなったようなもんだ。実際には日本の現代アニメが始まったのは44年前の『白蛇伝』か39年前の『鉄腕アトム』か、なんにせよこれほどアニメが盛んになってもそれほどの威力を発揮したことはまだあんまりない。世界の歴史上にもほかにこんな例はない。
衰微した歌舞伎はやむなく文楽の演目を上演するようになり、また人形の演技をそのまま取り入れるようになった。歌舞伎の反現実的で象徴的な演技の型は文楽からの直輸入されたものである。
近松半二が死んだ後は何故か文楽のまともな新作がまったく出なくなり、客もまったく入らなくなり、じつに200年間壊滅的な低迷を続け、いつ消滅するかと云われ続けて、客が戻ってくるようになったのはこの20年ほどのことである。
近松半二のあの完璧な作品を観せられるとあとから新作なんか書く意慾もなくなろうというもんだが、じつは『奥州安達原』で近松半二が一本立ちした2年前の竹本座、豊竹座の相次ぐ焼失によってすでに黄金の60年は幕を閉じていた。これほどの傑作でも客は入らず、そのためなのか最期の完成者として当然なのか近松半二の作品は次第にバロック化する。凄いのは均整取れた構成とバロック化した構成がともに矛盾無く完璧に融合していたことで、これは華麗なる人形の特質である象徴性と一体化することによって作品世界を自在に操れたことによるもので、大近松の世話物の如くに人形の象徴性に押しつぶされて息もできなくなるのとは対称的だ。
繰り返すが、大近松のほうは一人遣いの素朴な人形に当てて書かれており、後世の人形で後世の演出で観せられるからそうなるのであって、近松門左衛門の責任ではまったくない。しかし、現在観ることのできるのは三人遣いの文楽だけであって、想像するしかない理想の大近松とは違って近松半二の作品はこんにち観ることのできる最高傑作だ。
ちょっと前までは若い者が文楽を観るなんてことはおよそ考えられないことだったが、いまでは若い観客であふれている。ヲタク文化の隆盛と無縁のことではないとあたしは想っている。
いまのまんがやアニメは発達したようでいてまだ近松半二の域までは達していないが、いずれはと夢想する次第ではある。
一方ですでに壊滅的な衰微は始まっているような気もするが。あの近松半二と滅びが同時にあったというのも、滅びながらも消滅せずに生き延びたのもヲタク文化らしいと云えば云えるのかも知れん。