あたしはできだけこの手のものを避けるようにしているのだが、ついうかうかと東浩紀『動物化するポストモダン』なんてものを読んでしまった。これはしかし、いくらなんでも酷すぎるな。
この本にあるようなことは江戸時代の歌舞伎や文楽に於いて遥かに洗練された形で完成している。それを論じたものも遥かに洗練された形でいくつもある。そんなことも識らない無教養にも驚くが、本を一冊読めば判るようなことを調べもしないで、この手のことが最近はじまっただのポストモダンだのと云ってる怠惰はいったいなんなんであろうか。
高校生の作文ならともかく、この人はもういい歳のはずなんだろうが。無防備なままに適当なことを云って、あとで間違いが判れば謝って済む問題なのかね。うーん、そのうち歌舞伎のことを識って、自分が発見したみたいに大騒ぎするであろう様子が目に浮かぶ。
唐沢俊一がきちんと批判するだろうと想っていたのだが、この人は最近の歌舞伎は詳しいみたいだけど江戸時代の歌舞伎や文楽にはあまり智識がないらしく少々頼りないな。大学には江戸文化に詳しい人もいるんだろうから、こういう無智蒙昧のうえに怠慢なる精神の輩には制裁を加えておいてもらわないと困るよ。本人のためにもこの本は回収したほうがいいんではないのかね。
この本のネタ元になったとおぼしい大塚英志の『物語消費論』では歌舞伎の<世界>のことを「大きな物語」と形容している。この人も歌舞伎を識らないままに書いてるようだが、「大きな物語」というのは誤解を与える表現ではある。
<世界>というのは絶対的な存在ではない。通常の演目でも二つか三つの<世界>が組み合わされる。南北になってくると七つも八つもの<世界>が「ないまぜ」となる。しかもこれは物語の幹となる部分の話であって、細かいシチュエーションやキャラやアイテムなどを入れると膨大な数になってくる。そもそも、元となる<世界>のほうも先行するいくつもの物語を踏まえているのであって、それらを踏まえて創られた作品はざっと百程度の<世界>を組み合わせたものと考えられる。現在のまんがやアニメが先行する作品からいろいろいただいてくると云ってもケタが違う。
これはできるだけ多くのものを踏まえるほうが教養があって偉いということもあるが、なにより役者にいろんな役やいろんなコスプレをさせたいという観客の欲求に応えるためにあるのだ。
だいたいまったく違う物語の<世界>をいくつも組み合わせるのだからストーリーは最初から破綻している。何百年前の武家の話と現代の町人の話が平行して絡み合い、しかもひとりの役者が町娘とお姫樣、ときには悪役を同時に演じる。一幕ごとに話は飛び、そもそも一幕ごとに作者も違う。
これは人気役者にいろんな有名萌えキャラをさせてお馴染みの萌え萌え名セリフをいくつも云わせて、しかもいろんな相手役との受けX攻めやおい関係を一度に全部観たいという、ヲタク慾望まるだしの観客がお腹いっぱいになって小屋をあとにするためのもので、現代のヲタク作品もまだまだここまで割り切って創られてはいない。
グッズ類の販売に関してもそうだが、すべてが消費文化としてすでに完成されていた。さらに重要なのは歌舞伎も文楽も当時の日本人にとって擬似的な日本だったことだ。飛鳥時代の話なのにみんなチョンマゲを結って現代の着物を着ている。現代の話であってもじつに奇妙な格好をしている。当時の日本人にエキゾチズムとセンスオブワンダーを感じさせるために歌舞伎も文楽もあったからだ。ヲタク文化の神髓だ!
この手の話を識るには須永朝彦の 『歌舞伎ワンダーランド』を最初に読むのがよろしかろうが、この本はヲタク論としても東浩紀なんかより格段に優れているとあたしは考える。この本を読んだ先は『郡司正勝刪定集』なんかが面白いが、それよりなにより歌舞伎を観ろ!ほんとはヲタク文化を深く論じるには文楽のほうが遥かに適しているだが、歌舞伎さえ観たことのない者には説明のしようがない。少なくとも歌舞伎を識らない者がヲタク文化を論じていたらそれはすべて出鱈目だと考えたほうがよい。その前にすべて默らせてもらいたいもんだ。
あたしが歌舞伎や文楽を観はじめた20年前は劇場はがらがらで若い者などほとんどいなかったが、いまでは若い者であふれている。これは日本人が明治以来しばらく失ってしまっていたヲタク魂の復活以外のなにものでもない。この復活というのが判ってない輩はヲタク文化をなにも理解していない。
ちょっと話は変わるけど、歌舞伎が門閥主義であるのは武士の影響が強い江戸だけの話で、歌舞伎の本場である上方では江戸時代から完全実力主義だったのですよ。どんな名門の息子でも最初は子供芝居からはじまって、中芝居で人気を得たら大歌舞伎の舞台に立つことができるというのが普通で、逆に生まれは何でも人気さえあれば頂点に立つことができたのです。江戸では考えられないことです。文楽はいまでも家に関係のない実力主義ですが、関西人のホンネ志向の顕れです。唐沢俊一さんも歌舞伎について発言するなら江戸時代の歌舞伎についてもうちっと勉強していただかないと。『役者論語』なんかは最初期の元祿の話だから現在の歌舞伎と同じく厳密には歌舞伎とは呼べませんので。
さて、こんな形式に囚われない自由主義のために戦後は市川雷蔵を初めとしてみんな映画に進出し、おもろければ何でも受け入れる関西の客もこれを容認し、上方歌舞伎は崩壊してしまったわけです。門閥だのにこだわる江戸歌舞伎は役者と観客の流出に歯止めが掛かって存続することができた。いまでもくだらない権威主義があるからこそ役者が留まっているので、そうでなければ全員松たか子になっていると想います。
2ちゃんねるの伝統芸能板を観れば判るように歌舞伎ファンというのはほとんどが役者のミーハーファンで、小難しいことは云わずに江戸時代そのままのじつに正しい態度で愉しんでいる。こういうところにヲタク的教養は確かに受け継がれている。ヲタク文化を論ずる者はきちんとこの<世界>を踏まえるように。
判りましたネ。
歌舞伎でのやおいやヲタク要素の具体的ありかたは2001/12/28 因果は巡るも参照のこと。
2002/5/9 ヲタク的教養とは何か2も参照のこと。
« 大鴉ã€è¨ªãªã‚ãšï¼