日本のアニメについて以下の如くの神話がある。
「手塚治虫は日本初のテレビアニメを製作したという称号を得るため、また市場を独占するために莫迦げたダンピングをし、その極端に安い制作費のために動画枚数を減らさざるを得ず、苦肉の策として日本独自の特異なアニメ表現が生まれた。また、こんにちに至るまでもアニメーターが劣悪な労働環境にいるのはすべて手塚治虫の責任である」
とくに前段に関しては手塚治虫自身があちこちで吹聴しているので、そのまま真実として広く受けとめられている。しかし、これは論理的に考えてかなりあやしい話だとあたしは考えておる。
これだけ安い制作費ならほかの会社は莫迦莫迦しくて参入してこないだろうからアニメ市場を独占できると手塚治虫は語っているが、成功したとしてもあくまでテレビだけの話でアニメ映画はすでに東映動画が確固とした地位を占めている。また、日本初の称号もテレビだけのことだし、テレビでもすでに米アニメがいくつも流されて人気を博していた。
いずれも「日本のディズニーになるため」と云ってるが、どうも論理的な関連性が成り立たないように想う。
実際すぐに他社も参入してきたが、あれほどライバル心の強い手塚治虫が怒ったという話も聞かないし、それどころか自分のまんがのアニメ化権を他社に渡したりしている。
ほかにもいろいろ理由は語っているが、テレビ局側からの提示をも大きく下廻る通常の制作費の1/3という無茶苦茶な値段にする意義はどう考えてもなかったはずで、つまりこの話は根本的におかしく手塚治虫は嘘を云ってる。だいたいテレビアニメ参入の理由が、それまで手塚のポケットマネーで創られていた実験アニメの制作費稼ぎということになってるのだから、わざわざ赤字にするのは最初から話が合わない。
あたしはこの何年か手塚治虫関連の資料を読んで考えてきてこれには確信を抱いているが、手塚治虫は自分ひとりで完全にコントロールできるアニメ制作を望んでいたのだ。
つまり、制作費が安いから動画枚数が減ったのではなく、最初から手塚治虫ひとりですべてに関われるような枚数にするために制作費を極端な安値に抑えたのである!手塚治虫はまんがに於いてアイデアから絵までひとりでこなし、死ぬまでアシスタントには背景しか描かせなかったが、アニメに於いてもスタッフをたんなるアシスタントとして遣い、週1回のテレビアニメを個人の作品としてやらかそうとしたのだ!
ほとんどまんがそのものと云っていいあの紙芝居的アニメは、制作費の安さからの苦肉の策ではなく、手塚治虫が選び取った必然であるのだ!<手塚まんが方式>という言葉はその意味からもじつに正しい。アニメというのは共同作業でしか製作できないはずなのだが、ひとりの作家の完全な指定通りの作品に仕上げるには、止め絵の連続でせいぜい口がパクパクするくらいしか動かない<手塚まんが方式>がいかに適していることか!通常のリミテッド・アニメではコントロールから外れてしまうのだ。何故なら動くから!
まあ、実態はいろいろ複雑でそう簡単に説明できるものでもなかったようだが、少なくとも『鉄腕アトム』の初期などは全動画を完全に指定した手塚治虫個人の作品と云ってよく、莫迦げた目論見が成功している。わずか40人のスタッフで週1回のアニメを製作した当時としては革命的なことも、さらに凄まじいこの事実からは霞んで見える(手塚方式があたりまえになった現在からではなく、何千人のディズニーや何百人の東映動画の何年も掛かる共同作業しかなかった手塚前史のアニメ製作から見るのですよ。何本もの連載を抱えたまま、同じことをひとりで週一でやろうとしたと云ってるんですよ!そんなことを想いつくだけでも凄すぎる)。
手塚治虫としてはテレビ局から仕事を請け負っている意識などまったくなく、自分の作品を流すために逆に放映時間を買うくらいの気持ちだっただろうから制作費などどうでもよかったであろう。しかし、自身の怪物の如き慾望を満たすためにこの制作費を極端に抑えることが有効であることを、意識的にか無意識的にか感じ取っていたに違いあるまい。初期には養成に時間が掛かるためにスタッフを増やせないということもあったようだが、将来的にも少人数に抑えて完全にコントロールするための保障として。
後段の話もいくら虫プロが安く受けたとしてものちに他社が値上げ交渉をすればいいだけのことで、他社が海外との契約を虫プロほど有利に運べなかったことを見ても、手塚治虫でなければうまくいったというのはいかがなものかと想う。だいたい、まともな値段で受けていたら当然まともな枚数のまともなアニメを週一で製作していたわけで、労働条件は却って悪くなっていた可能性さえある。少なくとも作品の質は落ちていたとあたしは考えるし、人気が出ずに日本アニメは早々に消滅していた可能性もある。
つまり、あの話は丸ごと神話にしか過ぎない。問題は神話の奧に隠された真実がさらに驚くべき人智を越えた神話であったということなのである。
前回のヲタク的教養とは何か 2で手塚治虫のことを出したのは、いくらなんでもヲタク文化は手塚治虫までは遡って考えろということです。現在のアニメ表現もべつに金田や板野から始まったのではなく、『アトム』の第一回にすべての芽があった、と云うよりすでに完成していたと云ってもいいくらいで、それは手塚治虫まんが、少なくとも『新宝島』から始まってることぐらいは理解しておかないと。
むしろ、60年代70年代のあの憎むべき劇画(うぺぺぺぺぺっっ)を間にはさんで、手塚治虫自身はとうとう取り戻せなかった初期手塚の復活が現在のヲタク文化と云ってもよい。先行する雑多な作品から膨大なイメージをいただいてきてモザイク的に作品化することも、なにより<萌え>も、手塚治虫がデビュー当時からまんがに持ち込んだことなんですから。なんであたしが劇画嫌いかというと、くだらないリアリズムが入り込んだとともに<萌え>が排除されたからですな。
現在のヲタク文化は江戸以前の日本精神の回帰という大きな復活と、初期手塚治虫への回帰という中くらいの復活で成り立っている。少なくとも後者は明確に影響を辿れるもので、しかも手塚治虫が意識的に切り開いた道筋であるのだから、決して見失うことなどなきように。
なんにせよ、いくらおつむが弱くとも海外のくだらない理論で日本のヲタク文化を語ることが無意味なことくらいは判りそうなもんですが。つーか、よそからもってきた枠組みに当てはめて何でも説明するなんて愚かしいことをいつまで続けるつもりですかね。歌舞伎も識らない日本人同士がコジェーヴがどうしたとか観ていて可哀想で涙がこぼれるようなゲームをやりたいだけならほかにいくらでもコマはあるでしょうから、ヲタク文化だけは勘弁してくださいよ。
この手のことが最近始まったなんて云ってるのはくだらない枠組みにむりやり嵌め込みたいだけなのか、それとも江戸文化だけではなく手塚治虫のことさえ識らないのか、いずれにしてもあたしは知識不足を指摘しているんではなく頭が悪いと云ってるんであって、その点はくれぐれも誤解無きようにお願いいたします。
虚心坦懐に対象だけを見詰めれば、こうやっていくらでも視えてくるものがあるでしょうに。
手塚治虫に関する考察は ブラック・ジャックの素と続きの2で展開しておるので、未読の諸氏は必ず奉読するように!!