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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2003/1/5  三島由紀夫の到達点

 先月は三島由紀夫の『椿説弓張月』も楽日に観た。歌舞伎座に行くのはひさしぶりで、これも三島の『鰯売恋曳網』以来だったか。
 『椿説弓張月』は15年前に国立劇場の2回目の上演を観ている。三島自身が演出した初演とほとんど同じだったようだが、妙に間延びする場面が多かったので短くすればいい歌舞伎になるんではないかと想っていた。今回の3回目の上演は時間の都合もあって大幅にカットされ、じつにテンポがよくなっていて、脚本的にはよくできてる。しかし、前回のほうが圧倒的におもしろかった。
 カットすればいいと考えていたぐらいだから三島の『椿説弓張月』は脚本の構成的にも失敗作だと想っていたのだが、今回の舞台を観てあれはじつは立派な成功だったのだと初めて気がついた。うーん、三島の戯曲の構成力を侮っていたか。

 ケレンとスペクタクルが呼び物の芝居なのだが、そのなかでも最大の見処であろう何十メートルの巨大怪魚は時間と舞台の狭さの関係もあって、今回は出たーっ!というユニバーサルスタジオ的なおどかしだけになっていた。15年前も登場はもちろん同じく驚くのだが、そのあとそうとうしつこく広い舞台上をぐるぐる泳ぎ廻っていて、いつまでもこんなものを観ていていいのだろうかという不安感に苛まれる悪夢的な時間の裂け目を創り出していた。
 降りしきる雪のなかお姫様の弾く琴に合わせて腰元たちが裸の男に釘を一本づつ打ち込んで血を流す<琴責め>も、15年前はもっとじっくりねっとりと責めていて残虐や変態趣味を突き抜けてただただ呆れ果ててしまう時空の歪みを生み出していた。
 こういうケレンの時間の引き延ばしによる妙な効果は当時も判っていたのだが、ケレンとケレンを繋ぐお話の部分がどうにも冗長でもっと短くすべきだと想っていたわけだ。しかし、ここがこの芝居の肝だったのだな。

 話は保元の乱に敗れた源為朝が流された大島からはじまっていて、再度平家と対決するため都に還ろうとするのだが、何度試みても失敗して辿り着けないという、闘いに敗れるのではなくその闘いの場に立つことさえ適わぬ悲劇の英雄の挫折を描きたいと三島は云っている。保元の乱も為朝が夜襲を進言したのに入れられず、ほとんどまともな戦闘もしないまま敗れて、しかも味方はみんな殺されたのに自分だけは死罪を免れて流されたわけで、つねに運命に見放され決戦の機を逸してしまう。
 あのとんでもないスペクタクルとスペクタクルを結ぶせっかくのスペクタクルを嘲笑うかのような空虚に退屈な時間は、この為朝の到達不可能性をじつによく顕していたわけだ。スペクタクルはその谷を、裂け目をより深くするためだけに屹立させていたわけか。
 そして、さらに三島自身の歌舞伎への挫折が加わる。これはかなり深刻な絶望だったようで、この芝居の失敗が一年後の自決に直結していると真剣に云っている人もあるくらいのもんだ。

 今回の上演の感想なんかをウェブ上で観て廻ると、この三島の挫折を己の台本や演出構想に対するものだと勘違いしている方が多いようだが、じつのところは歌舞伎役者たちが歌舞伎を識らず、そのために己の考えるほんとうの歌舞伎にならなかったというのが真相だったりする。
 己の台本や演出構想には疑問を抱いていなかった証拠に、なんと!三島自身がセリフを語るこの芝居のレコードを販売しているのですぞ!小説家が鶴澤燕三の三味線をバックに歌舞伎をやるだけでもそうとう無茶な話だが、これはたんなる素人の道楽である「寝床」ではなくて、プロの歌舞伎役者にほんとうの歌舞伎を教えてやるためなんだからもうイカレてるとしか云いようがない。
 CDになってるので物好きは聴いてみるといいが、これがまた今回の上演なんかよりも遥かによかったりするからよけいにカルト的と云おうか。出たがりの三島自身が出てくる作品のなかでは一番出来がいいと云ってもよいかも知れん。

 歌舞伎役者が歌舞伎を識らないとはどういうことかと云うと、歌舞伎素人講釈にあるように、三島は天明時代のほんものの歌舞伎をやろうとしているのに役者は幕末の黙阿弥のテクニックでやってるということ。実際には黙阿弥ですらなく、江戸時代とはまったく違う、つまり歌舞伎じゃないなにものかなんだが。
 さらにやっかいなことに、初演にも参加した猿之助が「三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当に御存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ」なんてかすかな微笑を浮かべつつ語ったと云われているように(蜷川幸雄「道化と王」、ユリイカ1986年5月号)、役者のほうはまったく自覚がなく反対にこんな三島を嗤っていたということだ。
 一応云っておくと、たんに三島が偏屈で素人で想い込みが激しかったということではなく、郡司正勝のようなもっとも江戸時代のほんものの歌舞伎を識っていたであろう人も三島の考えを共有していたんだが。
 すでに死んでいる崇徳院に対する「故忠への回帰」を目指す為朝と同じく三島はすでに失われた伝統に対する「故忠への回帰」を目指したわけだが、伝統の継承者で数少ない同志であるべき歌舞伎役者に嘲笑われてしまった。為朝は自決せんとしたとき顕れし崇徳院の亡霊に天盃を賜り行くべき道を指し示されるのに、三島は云わば伝統の亡霊たちに嘲り嗤われ道を塞がれたわけだ。その絶望たるやいかばかりか。

 今回は猿之助演出ということでどうなるんだろと想っていたら、スペクタクルのケレンだけを残して谷間の部分は極力切り詰めて、いつもの猿之助歌舞伎に比べても遥かに全編ユニバーサルスタジオ的になっていた。とくに特徴的だったのは猿之助自身が演じた為朝がまったく明るく何度挫折しても困難に立ち向かう希望を失わない人物となっていたことだ。故忠の対象である崇徳院はすでに死んでいて、たとえ平家を倒したとしても成功はあらかじめ失われているはずなんだが、おかまいなしに脳天気なまでに希望を抱き続けている。
 三島は先代猿之助の心理描写を反歌舞伎的なものとして批判していて、いまの猿之助は先代ゆずりの登場人物の心情を繙く心理描写こそ歌舞伎の本質であると考えていて、いろんな意味で捻れた舞台ではあった。
 前回の幸四郎はこの役者の資質もあるし初演で先代幸四郎がやったのと同じ役を務めるという神妙さもあって、暗く陰鬱な為朝だった。同じく心理描写にこだわるふたりの役者の対称的な違いは、心理描写の力量の差もあるが猿之助が三島を莫迦にしているということが大きいのだろう。むしろ、初演の初稽古に自分でセリフを吹き込んだテープを持ち込んでこの通りにやってくれと云った三島に歌舞伎が莫迦にされたと感じ、己の信じる歌舞伎のために三十三年目にして復讐を遂げたと云ったほうが正解か。つねに上機嫌だったあの為朝は、信じるものへの忠をいままさしく果たしつつある歓びに満たされていたのだろうか。
 幸いと云うべきか、猿之助は己の歌舞伎を見せつけることで復讐するのではなく、ただ三島歌舞伎の破壊だけに徹していた。これはある意味ネガとして、三島の目指していたものを尖鋭的に炙り出したと云えるのかも知れぬ。
 谷間の部分がないだけではなく、スペクタクルと為朝の挫折が唯一交叉する真っ二つに折れて沈む船が出てこなかったのは舞台機構の都合なんだろうが、今回の上演には象徴的ではあった。あの船も莫迦みたいに巨大でゆっくり沈んでいったため、スペクタクルというより妙に紗幕が一枚挟まったような悪夢にうんうん魘される感じでなかなかよかったのだが。

 三島演出の失敗作と猿之助演出の歌舞伎でないものというあまりに懸け離れた両極を観て、あたしはその央に三島が夢見たであろうほんものの歌舞伎としての『椿説弓張月』をはっきりと視た。
 この芝居は自害した白縫姫の魂が寧王女に憑依して甦るという転生の物語でもあるのだが、すぐに憑り移るのではなくいったん巨大な黒アゲハと化して飛来しながらむしろこの姿のまま一番活躍する。あたしはふたつの舞台の間に黒蝶が舞うのをたしかに視た!それはふたつの舞台を結ぶのではなく垂直に飛来し、どこに留まることもなく蒼穹の彼方へと消えていった。実体を持たぬまま到達不可能性だけを伝えて、転生の蝶はたしかに舞った!受け留めるべき肉体がない現代ではどこにも着地しないまま飛翔させるために、どうしてもふたつの失敗作の反発し合う磁場が必要だったのだ!横尾忠則にポスターを発注する際、もっともこだわったという影の如くの黒い蝶は、初演より三十三年目にして初めて舞った!

 三島の歌舞伎に対する想いは、上記の歌舞伎素人講釈の「三島由紀夫の歌舞伎観」がよくまとまってる。補遺ノートを先に読んでから、その共感と嫌悪を読むのがよろしかろう。
 三島由紀夫はよく云われるように一に評論、二に戯曲、最後が小説(細かく云うと三に短編、四が長編)だとあたしも想うが、その評論のたとえば『小説家の休暇』『裸体と衣裳』なんてのは三島の歌舞伎に対する複雑な愛憎を判ってないと半分も理解できないようになっている。あるいは自決の意味も判らんと想う。
 三島由紀夫について語る者は、上記リンクの内容くらいは実感として判るように江戸を幻視しながら歌舞伎を観るように。

 
※三島自身が義太夫を語る『椿説弓張月』は「決定版 三島由紀夫全集〈41〉音声(CD) 」で聴けるようになりました。