国立劇場で文楽『義経千本桜』の通しをやっていて、84歳の人形遣い吉田玉男の知盛に圧倒される。なんじゃ、こりゃ。あんまりびっくりしたので手を尽くしてチケットを手に入れて2度観たよ。
正月の舞台では心許ない感じでさすがの玉男さんも老いたか無理もなしと想って、5月には復調してあの歳で元気だなあと笑って観てたのだが、今回はもうそういうレベルではなく完全復活しておる。
歌舞伎なら座ったままでも勤まるが、人形遣いは重い人形を持って、高下駄履いて、複雑に動き廻らなければならんのだから誤魔化しが効かない。それも大立廻りの末に壮絶な最後を遂げる知盛をやろうというのだから尋常ではない。
壇ノ浦で死んだはずの平知盛がじつは生きていて幽霊のふりをして義経に再度挑むのだが、なんかそんな姿が重なってくる。また、明治以降はいつ消滅してもおかしくなかったのに何故か復活して隆盛を極めている文楽の姿ともそのまま重なる。
さぞや騒がれてると想いきや、ウェブ上ではあんまり評判がよろしくないな。
たしかに玉男さんを初めとして長老連中は全盛期と比べると落ちてるのは間違いがない。とくに義太夫の人間国宝ふたりの凋落は著しい。だが、これだけの陣容での千本桜はもう最後で、これから20年や30年はないだろうし、そういう意味ではいまは文楽の黄金期でなんのかんの云うのは贅沢だ。
若手にはいいのがいっぱいいるのであたしは文楽の未来を楽観視しているが、昭和8年に入門してほんとに文楽消滅の危機を何度も潛ってきた玉男さんがいなくなるとちょっと違ったものになるんではないかと満杯の客席で漠然と考える。
さても、70年前の文楽を肌身で識ってる人間がいまも現役でいるというのは奇跡以外のなにものでもなく、もしも若い客が還ってくるようになる以前の20年前に玉男さんがいなくなっていたとしたら何かが一度途切れてしまって、ここまでの隆盛はなかったのではないかとも想う。
2003/1/5 三島由紀夫の到達点に於いて、歌舞伎をまったく識らない諸氏に説くにはあまりに話が入り組むのでわざと落としたのだが、三島の云う<伝統>とは明らかに神風連的なるもので、つまり「不可能だから尊い」という逆説的なものだ。すでに死んでいる崇徳院に対する「故忠への回帰」を目指しながらも盡く失敗する源為朝を描く必然がここにあるのだろう。
三島にとって失敗はあらかじめ予定していたことで、扇をかざして電線の下をくぐり抜け、刀だけで新政府転覆を目指した神風連の如き雄壮なる失敗を披露することで、滅んだ時代の<伝統>を逆照射しようとしたのであろう。<伝統>は次代に伝わらないからこそ<伝統>なのだ。
ところが、同志であるべき歌舞伎役者に嘲笑われ裏切られたことにより、その尊い<不可能性>を構築することさえ適わなかったわけだ。失敗を示すことさえ失敗した。この二重の不可能性によってあの三島の絶望は招来され、1年後にもっと世間に判りやすい「不可能だから尊い」あらかじめ失敗が予定された単純なひとり芝居を演じる羽目になる。
吉田玉男の知盛を観ていてつくづく想うのは、ひとりの優れた人物が時代を超えて生き延びるということだけで<伝統>というのは繋がるのだなという単純な事実である。玉男さんより歳下の三島が今日まで生き延びていてこの舞台を観ていたらなんと云ったであろうか。女の子でありながら男として平清盛に天皇に仕立てられた云わば偽帝、しかもこれまた壇ノ浦で死んでるはずの幼き安徳帝の言葉によって源氏への復讐を諦め千尋の海底へと姿を消す知盛の壮絶なるその姿を。
まったくもって、寿命も才能の裡ではある。
この玉男さんの知盛を観たことは死ぬまで自慢できるな。
これを観ていない者の芸術だのヲタク文化だのについての言説はすべて贋物であると絶望書店主人はここに認定しておく。
てなことを書いてから調べてみると、来年の4月に大阪で文楽劇場二十周年記念に玉男さんはまた知盛をやる予定らしい。この歳で来年の予定が決まっているのも大したもんだが、さすがに東京では一世一代(つまり知盛はこれが最後)のつもりであったようだ。
しかし、なんか90歳になってもまたあのしれっとした貌で演ってそうではあるのが恐ろしい。自慢するのはまだまだ早いか。