今月の歌舞伎座は玉三郎15年ぶりの『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』、別名『お染の七役』。鶴屋南北・作。
絶望書店日記に記した去年末の『椿説弓張月』白縫は33年ぶり。6月の『曽我綉侠御所染』時鳥、皐月は16年ぶりと代表作を最近になって急に一気にやるのは一世一代(つまり最後の舞台)で二度とないのではと考えているファンもいるらしい。殊に最大の代表作である桜姫を19年ぶりに来年やるという噂があるそうなので、これはかなり信憑性のある話ではある。
玉三郎の『お染の七役』は15年前に観ている。あたしはこの10年ほど歌舞伎から離れていたので、これほどの人気役をあれから一度もやっていなかったのかと驚いたが、再度観てみるとなるほどこれだけは前回が最後と一度は期したのもむべなるかなと想わされる。
年齢も性格も性別も違う七役を次から次から目まぐるしく早替わりで魅せてゆき、舞台裏は戦場、舞台に出て休むといった塩梅らしい。あの外見からはとても信じられぬが、玉三郎ももう53歳でもあることだし。
前回観たときは何が何やら訳が判らんかったが、早替わりは面白かったしそれが眼目なんだからストーリーなんかどうでもいい芝居なんだろうと想っていた。今回はちょっとだけ脚本がいじられて、ずいぶんと話が判りやすくなっている。
あらためて原作を読んでみると、お染久松の心中物に御家騒動を絡ませた複雑な筋でいろんな人物が錯綜するのにじつによく構成されていて判りやすい。南北のほかの原作はあたしの頭にはあまりに入り組み過ぎて、なんか破綻してるようだけどほんとに破綻してるかどうかさえこんがらがってよく判らんというのがほとんどなんだが、逆に理屈が通り過ぎるということでもないしこれは珍しいな。
この芝居が初演された文化文政期は早替わりが大流行で、2002/10/31 贔屓本の世界で名前を出した三世中村歌右衛門が大坂から下ってきて変化物が得意だった江戸の三世坂東三津五郎と張り合ったために、ふたりで七変化合戦が繰り広げられて大変だったらしい。ファン同士が殴り合いのケンカをしたりといったとこまでいく。
もっとも、このふたりの七変化は舞踊が中心で、芝居の場合は『忠臣蔵』や『菅原伝授』のような定番で皆様お馴染みの七役を披露するというものだった。
ちょうど最近、この三世中村歌右衛門の変化舞踊『慣(みなろうて)ちょっと七化』と七役務める『忠臣蔵』を鴈治郎が復活したのを観た。どこまで200年前の舞台に近いのかは識らんけれど、あれを観る限りでは早替わりはもちろんあるもののそれが眼目と云うより、とにかく人気役者が最初から最後まで出突っ張りでいろんなコスプレと幅広い芸を観せてくれるというのが値打ちであった。
『お染の七役』は最初から七役向けに書き下ろしているのが新機軸だし、お染と久松の逢瀬のなかで玉三郎がお染になって久松になって、またお染になって久松になって母親の尼さんになるといった具合で、変化したあとより変化そのものが売り物なんであった。南北はすでにこういった2役くらいの早替わりのケレンはいろいろやっていて、それと七変化とを組み合わせたということか。早替わりには慣れていた当時の観客も「肝が潰れて見物するもしんどい」といったことだったらしい。
今回面白かったのは玉三郎がお染になったときの久松、久松になったときのお染などの吹き替え役が伏し目がちながらもわりと堂々と貌を晒していて、玉三郎の体型に合わせてすらっとした格好のいい役者を揃えていることもあって、通常は殺そうとする存在感を打ち出していたことで、また玉三郎も早替わりの直後はわざと伏し目がちに貌を隠そうとするので、あれっこれも贋者かな?と一瞬惑わして、つまりいつもは抜け殻のような吹き替え役全員に玉三郎が詰まっているような錯覚を覚えるお得感があった。
むしろ玉三郎は舞台裏の着替えに忙しくて舞台にはあんまり出てなくて、吹き替え役こそがこの場の主役だったりする。ほんとの主役が舞台に張り附きっぱなしになる『忠臣蔵七役』なんかとは、この点が根本的に違う。
なんか吹き替えには玉三郎のお面を着けさせていたらしいんだが、貧弱な眼のせいか100円ショップのオペラグラスのせいか3階席からの角度のせいか、あたしにはよく判らんかった。また、ファンはお尻の形で玉三郎か贋者か見極めがつくらしいのだが、あたしにはそこまでのお尻方面の眼力はないので、他愛もなく騙されて、この吹き替えによる七変化というより七分身の効果が存分に味わえた。
もちろん、主役の不在による吹き替え役の面白さなんてなことだけではファンは納得しないので、南北は江戸時代隨一の美貌を誇った女形・目千両の五世岩井半四郎のために唯一早替わりをしない土手のお六を用意している。現代隨一の美貌を誇る女形・玉三郎もここではぞくぞくする悪女ぶりをたっぷりと魅せてくれる。
大勢の贋者のなかのどれに半四郎(玉三郎)が詰まっているんだろうと惑わせる場面と、これはもう半四郎(玉三郎)しかありえないという土手のお六の活躍する場面とのふたつをきっちり出してくるとは、南北はやはりただの七変化を仕込んだだけではなく、ヲタク文化にとってキャラとは何かと云うことを受け手側に意識して問い質そうとしている。
半四郎(玉三郎)と同じスタイルの肉體で半四郎(玉三郎)と同じ衣裳を着て、ときに半四郎(玉三郎)と同じ声でセリフまで喋るあの贋者に惑い、また本物の半四郎(玉三郎)を一瞬贋者と想うとはどういうことなのか。我々はいったい半四郎(玉三郎)の何に萌えていることになるのか。そこにはお染久松というお馴染みのキャラと新キャラが七枚被さるわけであるし。
200年前の芝居に驚いている我々は、200年前の南北の問いを突き附けられている。
はたまた、我々のやってることは200年後の人々をこれほどまでに驚かせることができるのだろうか?