世の中には呆れるほど迂闊な輩がいるものでして、そいつあいったい誰だって云ったって、なにを隠そうこのあたくしこと絶望書店主人なんですが、あたくしは今日たったいま
今和次郎が早稲田大学建築学科教授だったことを識りましたよ、ええ。
いや、たぶん識っていたとは想うのですが、当店に何年も並べている大正2,5年の早稲田大学建築科事務室日誌となんも結びついておりませんでしたよ。「今」という名前は毎日のように出てくるのですが、今和次郎とは想わなかった。
建築科の全教授や学生の毎日の出欠、退出時間、成績、卒論タイトル、就職先から、帝大など外部よりの見学者名まで書き込まれて、時間割表、試験問題、理工科からの通達書、教科書の納入書など張り付けて、いやにこまごまと役に立ちそうもない情報が詰まってるなと想っていたのですが、これはつまり身近な日常を観察対象にして『考現学』をしていたんですな。
もっとも、今和次郎は書き込んだりはしてないみたいです。他の教授陣と同じく「今先生」という表記になっておりますし。尊称のないのは、三浦、新津、岩野、若木などで、この4人がおそらく事務員で日誌を書いていたのでしょう。
4人は学生のアルバイトなのか、あるいは後の「白茅会」や考現学調査に参加しているかどうかは調べておりません。
この日誌の最初の3ヶ月は佐藤功一教授のダチョウの特徴ある印が全日付に捺されていて、その期間は活字かと想えるようなきっちりとした毛筆で清書されていますが、この捺印がなくなるととたんに雑な表記になっています。つまり、この恐ろしく細かい役に立ちそうもない情報を網羅するという形式は、佐藤功一教授の指導なんでしょう。
今和次郎が早稲田大学建築科の創設者である佐藤功一教授に誘われて柳田國男の民家調査「白茅会」に参加するのは、この日誌の翌年の大正6年から。初の考現学調査である「銀座街風俗」は大正14年。
『考現学』のメソッドを編み出したのは今和次郎ではなく、佐藤功一だと考えたほうがいいんではないでしょうか。少なくとも影響が決定的に大きかったのはこの日誌を見れば証明できるはずです。『考現学』に対する佐藤功一教授の影響はどの程度認識されているもんなんでしょうか。
佐藤功一教授は大隈記念講堂や日比谷公会堂を設計した建築家で、『考現学』と関係なくとも佐藤功一教授資料として貴重なる日誌であります。
どの本でも元にされている今和次郎[年譜]によると、今和次郎は明治45年に東京美術学校を卒業して早稲田大学建築学科助手となり、大正3年に講師、大正4年に助教授、大正9年に教授に就任ということになっているのですが、この日誌では最初は他の教授陣と同じく「先生」表記、大正2年6月から他の教授陣と同じく「教授」表記、9月から他の助教授陣と同じく「助教授」表記となっています。
9月以降は「講師」という肩書きの人もいるのですが、大正2年はずっと「今助教授」となっています。大正5年はずっと「今教授」ですがこの時期に「助教授」の肩書きの人はひとりもおりません。「講師」は数人います。教授と助教授と合わせて「教授」と表記するようになっただけのような気がします。
とにかく、年譜とは明らかに違う表記がありますので、今和次郎の経歴はあらためて研究し直す必要があるでしょう。肩書きだけなら大した問題ではありませんが、こんな基本的なことが間違っているのなら他にも間違いは多いということです。
この日誌を何年も絶望書店に掲げていて不可解なのは、早稲田大学からただの一度も問い合わせがなかったことであります。自校の歴史を大切にしない大学なのか、あるいはここに辿り着くほどの情報能力にさえ欠けているか。いずれにしても大学を名乗るにはあまりにもおそまつと云わざるを得ません。
あんまり誰にも注目されないんで20万に値下げしていたんですが、これを機会にまた200万円にします。『考現学』資料としてはこれでも安すぎて、億単位にしないと失礼にあたるというもんですが、まあ今日のところはこれぐらいにしておいたろ。そのうちまた値上げするかも知れません。
しかし、なんでまたダチョウなんだろか。