川上未映子の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』をようやく読んだ。
ウェブ上を見てみると町田康の名前と並べて色々云っている人が結構いて、大阪弁というだけで町田康の亜流みたいに考えるというのは、いくらなんでもおまえらこれまで本というものを読んだことがないのかという感じで、大阪言葉の多弁なる文章遣いなんて昔からいくらでもいるだろうと云いたくなりますが、とくにこのふたりの作品は出来があまりに違いすぎるのであたしには信じられないことではあります。
町田康のきっちり造り込まれてどこを切っても均質なよくできた工業製品というか、読めども読めども同じ調子で、金型に流し込んでがっちゃんと打ち抜いただけのどこを削っても赤一色のプラッチックでできてるグリコのおまけのクルマのおもちゃみたいなもんがあらかじめきっちり計算され尽くした道順を忠実に辿ってコントロールされた速度を決して踏み外さずに見事にぴっちり守りながら目的地に間違いなく到達するが如き在りようと、未映子の歪で不揃いで継ぎ接ぎのうえに流体でさえあるどろどろの塊が形象を変転させながらどこに飛んでくのかよく判らんままに蠢いているのとはあまりに対極にありすぎる。
町田康というのは古今の文学史のなかでもあれほど破綻のない展開と均質な文章を駆使する作家は他に例がないのでないかと想えるほどで、手法が究極まで洗練されて確立されてるハーレクインロマンスなんかでももうちょっとノイズが紛れ込んだりして面白味もあるのに、あんなにどこを読んでも同じ調子で単調なもんを読んでる人はいったいなにが面白いのだろうか、それ以上にあんな自動機械が書いてるようなもんを書いてていったいこの人はなにが面白いのだろうかとあたしなんかはなんとも不思議に感ずるのですが、まあそれは好きずきなうえに大きなお世話というもんで、ともかくあたくしはどうせ読むならなんだか判らないどこに連れてってくれるのかまったく先の読めない読んだことのないもんを読みたいという生来の嗜好がございまして、未映子だ未映子だとこの数年ひとさまに笑われながらもきゃんきゃん嬉しがって吠えてるのはここんところがミソなのでありますね。
掲載の早稲田文学復刊0号にはこの『イン 歯ー』が<剣玉基金>とかいうのを受けたとありまして、早稲田文学を私費を投じて長年ひとりで支えていた平岡篤頼がしばしば口にしていて墓碑にも刻まれてる「文学は剣玉である」にちなんでいるとのことで、しかしこの言葉は文学の本質を突いた実に素晴らしい文言ではあるな。
平岡は「作家は頭だけで考えて作品を生み出すのではなくて、心身の全体を使った労働の形で、作品を誕生、あるいはほとんど恋愛に近い読者とのコミュ二ケーションの発生に加担するのです。」というような意味で剣玉と云ってたらしいけど、もうちょっと単純に大きい皿小さい皿中くらいの皿の間を飛び跳ね、先っちょのとんがりに突き刺され、あるいは玉の上に本体(あれはなんてゆうんやろと調べたら<剣>というのか先っちょは<剣先>というのかなるほど)を載っけたり、奔放に飛び跳ねる動的な不定形の在りようとしてこの「文学は剣玉である」というのは川上未映子の作品にこそふさわしい言葉。
いま噂が漏れ伝わっている賞なんかよりも、この<剣玉基金>の第一回が川上未映子初の小説と謳われてる『イン 歯ー』であったことは、この廃墟と云うにもあまりに渺茫と何もない地平がただ広がっている領域にたったいまゼロから未映子が文学というものを復活させようとしている門出においてこれ以上のはなむけはあるまい。
今時のゴミみたいな文芸に満足している輩はともかくとして、文学の復活に立ち会おうとしている眞の眸をもった飢え切った文学豺虎の諸子は座右の銘にして「文学は剣玉である」と朝晩唱えんといかん。それらの文学に眞の眸を具えているがゆえに飢えている者に多少は届きやすくなるという点に於いて、漏れ伝わっている候補も役には立とう。読みさえすれば、判る者にはすぐに判るし。
さても、未映子の作品は絲の切れた奔放なだけのけん玉のようでいて、しかし、確かに絲がぴんと張って玉が重力以外の力に引っ張られて中心に戻ってくる刹那が確かにある。あの絲は果たしてなんであるのか。
存在論だとか規範だとかの哲学的な命題が必ず未映子の作の根柢にはあって、怒濤の言葉の奔流に押し流されて、あるいは逆にあからさま過ぎてかその点は誰もあまり触れないようになっているのだが、やはりそれが絲となっているのだろうか。
『イン 歯ー』と前作の『感じる専門家 採用試験』では、まだ生まれていない子どもへの語りかけというのが中心となっていて、未映子ブログの大島弓子を読めないで今まで生きてきたと合わせて読んでみると、『バナナブレッドのプディング』が念頭にあることはこれ間違いなかろう。
『バナプ』は大島弓子の最高傑作であるとともに初期と成熟期を分岐する画期だけれど、大島弓子は最初からまったく同じことをやってたのに初期作品はなんだか観念的で判りずらく呑み込みにくい。それがやってることは同じなのに『バナプ』以降はすんなり頭に入ってくるようになったのは、視点が複数になったことに尽きる。それまで一人称的だったのが複数の登場人物から多角的に覗き込めるようにしただけのことですんなり頭に入ってきてあれほど感動するのに、さて『バナプ』にはいったい何が描かれているのか説明せいと云われてもこれがなかなか難しいというか洞窟に映った影とかについて漠然と語るならともかく究極的には不可能だ。これが物語というものの面白さであって、ポリフォニー理論とモノローグなんてのはドストエフスキーとトルストイを比較するよりも大島弓子の初期と成熟期を対比したほうがより物語とは何ぞやという深淵を探るにふさわしい秘鑰がそこにはあるだろう。
その大島弓子は『バナプ』を頂点としてじわじわと言葉で説明しやすいような作品内容に変容してゆき、図式的な『ダイエット』なんかに10年で辿り着いて熱死を迎えてあっさり物語を捨ててしまった。あまりに儚い10年だったと云うべきか、はたまた奇跡が10年も続くなんてまこと夢のようだったと云うべきか。
ようやくここで川上未映子の話になるわけだけど、この人の作は『イン 歯ー』なんかでも複数の登場人物が対立しているようでいて登場人物たちの区別がまったく付かないほど同一でモノローグ的かと想いきや主人公が内部分裂というか不定形でひとりポリフォニーになってるという具合で、とりあえず作者の視点なり意図なりがわやくちゃになってるので、あれだけあからさま存在論だとか規範だとか云ってるのに誰もテーマやストーリーには触れずに独特の言葉のリズム感みたいな感想ばかりになる、あるいは眞の芸術の眸のない可哀想な輩には単なる作品以前の落書きみたいなもんとしか受け取れないということになっている。
あたしには大島弓子初期のやり方のままで『バナプ』を越える作劇術になる萌芽がここにあると視ている。似たようなのに多和田葉子『聖女伝説』みたいなのもあるが、『聖女伝説』のような稚拙なもんではなくすでにして川上未映子では実はもう完成していて見えづらくなってるだけだが、これは一重に短いということが障碍になっているのであって、あのまま千枚くらいの長編にしてしまえばテーマやストーリーではなく作品総体が存在論だとか規範だとか未映子の哲学を顕現する構造体となっていることが誰でも判るようになる。要するに未映子の脳なり世界なり宇宙なりの雛型というかそのものであることがはっきりする。あたしが思考の塊を投げつけろ!だとか吹いている由縁の処ではある。
総体が剣玉の絲なのだ。「文学は剣玉である」というのはそれ以外では成り立たないテーゼなのだ。図式などに還元できるものは物語でも文学でも芸術でもない。
千枚くらいの長編に膨らませば脳なり世界なり宇宙なりそのものになるんだからポリフォニー的にもドストエフスキーを越えるばかりか、膨らまされた隙間を埋めるためにもあの怒濤の言葉責めと過剰なイメージの投げつけがより一層でカーニバル的にもラブレーを越えてバフチンも撃沈てな具合になること請け合いだから、編集者諸子は四の五の云わずに未映子を罐詰めにして千枚書かせばよろしかろう。難しいことは一切せずにあのままそのまま膨らませるのが肝要。
大島弓子が言葉で説明しやすいような図式的な処へ墮ちていった元兇のひとつは、『バナプ』以降に短篇ばかりを描いて、複数の視点を作者が自分のものとして完全にコントロールできるようになってしまったということがあるだろうし、『バナプ』の成功は長編連載であるにも関わらず先の見通しをなんにも立てないままに描き綴っていった処にもあるだろう。まあ、先の見通しがないまま突き進んでああいう具合にまとまるというのも奇蹟的で、同じことを繰り返せば同じ処まで到達するもんだとは限らないのであって、大島弓子なんかはあっさり諦めてたのかも知れんが。
ところで、あたくしはいまのいままで『バナプ』は『草冠の姫』の自己リメイクだとばかり想っていて、この駄文をその線でまとめようと念のためどのくらい期間が離れるのだろうかと調べて、こちらのリストを見ると『草冠の姫』のほうが2ヶ月あとなんですな。
ほんまですかいな。順番もですが直後にこれだけ似た作品を出すというのもどうも信じられんのですが、再録じゃなくてほんとに初出なんでしょうか。それとも、あたしがなんかほかの作品と混同したりしてるかな。手元に本がないんでどうにもあやふやですが。
この順番が正しいのなら、それはそれで誰かこのことを考察したりしてるんでしょうか。『バナプ』でポリフォニーを導入してあれだけ成功したあとに、また初期型のモノローグへの搖れ戻しがあったということなんですかね。判らん。大島弓子への謎がまたひとつ深まった。
あるいは成熟をもたらしながらも定番となって最終的にはその豊かな世界を食い尽くして痩せ衰えさせてしまうことになる<第三の視点>への抵抗を、導入した直後早速にも試みたということなのか。大島弓子初期のやり方のままで『バナプ』を越える作劇術という、未映子に視える大島崩壊回避システムを探ろうとしたのであろうか。
剣玉のバランスはかくも危うく脆く味がある。
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