さて、国立劇場の『彦山権現誓助剣』ですが、35年ぶりの通しということだったのに時間の都合で最初と最後が切られていて、途中も妙な具合に端折って繋がりが悪く、せっかくの通しの意味があまりありませんでした。また、肝心のお園の中村雀右衛門が足許も危うくセリフも頼りなく、六助の富十郎が素晴らしかっただけにぶち壊しだなと想って帰ってきました。
帰ってから渡辺保の歌舞伎劇評を読むと、この雀右衛門を絶賛しておる。歌右衛門が死んで以来の陶酔感をあたえる舞台とまで云っていて、これはなかなか尋常ではない。たもっちゃんとあたしは観る視点が根本的に違っていて、これまでも感想が一致することはあまりなかったのですが、いくらなんでもこれはなんじゃ?あたしとは違うものを観ていたのだろうか?
まあ、観た日によって出来が違うということはあるから確認のために2ちゃんの伝統芸能板を覗くと、日によって違うということもないらしくこちらも賛否半々か。あの雀右衛門に対して半分も絶賛派がいることも信じがたいが、否定派もどうも歯切れが悪い。なにがなんだか判らず、あたしは???????????という感じでありました。
読み進めているうちにようよう雀右衛門がすでに82歳であることが知れた。そうか!なるほど!!82歳であれほど動き廻っていたのならこれは確かに大したもんだ。あたしが最後に歌右衛門の舞台を観たときは78歳でほとんど座りっぱなしで動かなかったのに涙を流さんばかりに感激したのに、82歳の雀右衛門が殺陣をこなしていたのを賞賛しないというのはどうかとも想う。普通に歩くのもよろよろしてるのに立ち廻りになるとぴしっと決まる雀右衛門の姿は、いまから考えると見事なものだ。だが、しかし・・・・。
今回の舞台はどうもいろいろ、物語にとってキャラとは何かを考えさせられることが多いな。
あたしは60代でもっとも充実していた時期の素晴らしい雀右衛門をずいぶん観ていて、それなりに一家言あるつもりだったのですが、歌舞伎から離れてしばらく観ていないうちにまったくついていけなくなってしまっておりました。歌舞伎を観るうえでの基本的情報が頭にも躯にも染みこんでいない。
そもそも、通しだから「ストーリー」を観に行こうなんていうあたしの魂胆が邪道でありまして、歌舞伎というのは役者を観るためにあるのです。全体の筋を通そうとする文楽と違って歌舞伎が出鱈目だというのは、役者をカッコ良く美しく観せるためにひとつのひとつの場面をどうとでも膨らまして変更していくということでして、話が繋がらなくなろうが破綻しようが、あるいはその登場人物がそんなことするはずないだろと云われようが、人気役者さえたっぷり活躍すればどうでもいいわけです。
そんななか、10年間も雀右衛門を観てないで年齡さえ判ってなかったあたしみたいなのはともかくとして、最近の雀右衛門を観続けている方にも否定派がいるというのはこれがお園であるからです。渋い年増の役なら多少動きが鈍くなっても円熟の芸として誰もが絶賛するでしょうが、お園は派手に戦闘シーンを見せてなんぼの役ですからさすがに疑問に想う方もいる。しかし、なんでわざわざ82歳でこんな役をやるかを考えればそれもどこまで正しいか。
軍隊から帰還して6年ぶりに舞台に復帰した雀右衛門は、それまで立役だったのに26歳にして初めての女形・お園で復帰を飾るという大ばくちに打って出て大成功し、女形としての地位を確立したのでした。その物語を背負って、雀右衛門というとお園ということになっております。兵隊に行ってた人がいま現在おんなじ役をやっていることもまた凄い話で、『彦山権現誓助剣』の本筋よりもそちらの物語のほうが歌舞伎では優先されるわけです。
もうひとり今回の舞台で目立ったキャラが73歳の富十郎が生ませた正真正銘の長男、3歳の大ちゃんでした。お園の甥で、富十郎の六助が引き取って可愛がっている弥三松をやってるのですが、とってもあどけなく愛くるしいので何かひとつやるたびに客席がどっと湧きます。
2ちゃんなんかでは今回の雀右衛門絶賛派もこの大ちゃんは不評ですな。せっかく雀右衛門なり富十郎なりが素晴らしい舞台を務めているのに、大ちゃんに喰われて台無しということです。
結局は役者を観ている通の方も演技なり<芸>なりを視ているということです。<芸>なんてのは役者の一部ではありますが、しょせんは一部にしか過ぎません。あたしみたいにストーリーを観るよりはましですが、邪道という点ではあまり変わりがない。
青木清治という82歳の爺さんが舞台上で四代目中村雀右衛門というキャラになりお園を演じる。歌舞伎というのはその二層目にあたるキャラを観るものなのです。まるっきりお園になりきってしまってもいけないし、その点、動きが鈍くてどう見てもお園は無理だろうという82歳の雀右衛門は判りやすい裂け目を創ってキャラを視せてくれる。お園の物語は一種の劇中劇で、しかし、やっぱりお園の物語でもあって、その辺りの微妙な皮膜の往き来の塩梅は現代のキャラ萌えヲタク作品と通底するものがあります。
同じく3歳の大ちゃんも素のままのキャラを視せてくれる。これが5歳くらいになると子役なりの<芸>をするようになって面白味がなくなります。雀右衛門のお園は間違いなく今回が最後でヘタをすると舞台そのものが最後になる可能性もあるわけですが、大ちゃんだっていまのキャラを観ることができるのは何回も無いということです。富十郎との70歳離れた親子という物語も背負っていて、雀右衛門と同じくらいの視線を大ちゃんにも注がないと歌舞伎を観ているということにはなりません。大ちゃんに湧いていた通でない客はじつに正しいということです。
体力的な問題なんでしょうが雀右衛門のお園は毛谷村の段だけで、ほかの段は魁春がやっておりました。べつにこういう問題がなくとも、詰まらない場では若手にその役をやらしたりすることは珍しくありません。ひとりの人物を違う役者が演じるというのも歌舞伎のキャラを考えるに於いて面白いところでして。同じ役者が演じる場合でも幕によって性格や貌がまったく変わることもありますし。性格の統一なんてくだらないことにこだわる西洋演劇とは根本的に違うものです。
須磨浦の段で、お園の妹のお菊が悪役の京極内匠になぶり殺しになる場面がいやにあっさりしていて物足りなかったのも、またキャラの問題を考えさせます。この場面は歌舞伎の影響を受けて文楽ではこちらの観劇記にあるように美女をいたぶる残虐非道な見せ物としてのみあるのですが、この手の趣向の本家のはずの今回の歌舞伎では話の流れや人物造形なんかを妙に意識して抑え気味になっている。全体の筋なんかとはまったく関係なく、女形の倒錯的な美しさを強調するためだけにある場面のはずが、本末顛倒とはこのことです。
あたしはもともとキャラ中心の見方が苦手なんですが、それ以上に西洋演劇的な妙に合理的な理屈を考えてこういうキャラ萌えに徹しない中途半端なやり方をするのがもっと嫌で、近頃の歌舞伎から離れてしまったわけです。本来はキャラ萌えの歌舞伎と物語重視の文楽とがあって、バランスがとれているものなんですが。
また、文楽のほうも役柄によって人形が決まっていて、手塚治虫みたいなスターシステムを取っていたり、段ごとに人形遣いやセリフを云う大夫が変わったりと、歌舞伎とはまた違った角度で物語にとってキャラとは何かを考えさせられます。
歌舞伎と文楽がきちんとそれぞれの特徴を守っていたであろう江戸時代はもとより、現代でもいい役者が出てくる歌舞伎と文楽とではヲタク文化の両輪としてじつにいいバランスが取れています。近頃のまんがやアニメのほうはここまでバランスが取れているかどうか。キャラ萌えばっかりでも、反対ばっかりでも辛いものです。