新春らしく桜姫のお話などを。去年の11月に7年ぶりの『桜姫東文章』上演を観たのに、これまで書きそびれてただけなんですが。
幻想文学やSFなんかが好きで、歌舞伎や文楽を観たことのない人は世界の半分も識らないことになります。ヲタク文化も判ってないことになります。とくに戦闘美少女を語る方が観ていないのは、無知蒙昧にもほどがあるというもんです。
えーと、ネタバレばりばりです。これぐらい書いておかないと、観てない人は永劫に観ないでしょうから。
なんか、木原敏江の『花の名の姫君』は『桜姫東文章』を原作にしているそうなんですが、舞台を観る前には読まない方がいいんではないかと存じます。まんがの出来がいいほどそうだと存じます。あたしは読んでないのでよく判らないの。ごめん。
ストーリーが占める重要度は低く、以下の文章はまんがほどの妨げにはならないのではないかと存じます。あたしが16年前にはじめて観たときは何の予備知識もなく、じつに幸いでありましたが。あまりの衝撃に、冗談ではなくほんとに一ヶ月ほど口が利けなくなってしまったのでありました。それほどのもんであります。
いきなり舞台を観るに越したことはございません。次がいつの上演になるかは判りませんが。読んでしまってから文句を云わないように願います。
お話は清玄というお坊さんと白菊丸というお稚児さんの、男同士の心中シーンからはじまります。ここで清玄だけが死にそこなって、偉い高僧になった17年後に、白菊丸の生まれ変わりである桜姫に出逢ってしまうんですな。
吉田の少将の桜姫というのは17歳の可愛らしい高貴なお姫様なんですが、じつは屋敷に忍び込んだ釣鐘権助という盗賊に手籠めにされて子供まで産んでいるんですな。それどころか、一度だけ契った顔も見てない権助のことが忘れられずに、権助と同じ釣鐘の刺青を腕に入れていたりもします。じつは吉田の少将は殺されお家の宝の都鳥の一巻も盗まれて、お家の一大事のときのはずなんですが。
吉田家への悪巧みのためにまたやってきた権助の腕にあの刺青を認めるや、桜姫は閨に引き込みます。それが見つかってしまうのですが、たまたま居合わせた清玄が不義の相手と讒言されて、寺を追われてしまいます。惚れあっていたのにひとりで死なしてしまった白菊丸の因果が巡ってゆくのでありました。
なお、この演目ではだいたい二役ということになっておりまして、今回は幸四郎が清玄と権助、染五郎が白菊丸と桜姫を演じておりました。父と息子の濡れ場ですな。
清玄はもう完全な破戒坊主と成り果てて、これまた赤子を抱いたまま追放された桜姫を追っかけてゆきます。しかし、前世のことなど覚えていない桜姫は権助のもとへと走ります。なおもしつこく迫る清玄は殺されてしまいます。
権助はまさしく悪党で、桜姫を小塚っ原の女郎屋へと売ってしまいます。吉原のような上等な廓じゃなく、ほんとの場末の安女郎というのがミソですな。腕の釣鐘の刺青が可愛くて「風鈴お姫」として人気が出ます。お姫様と遊女がチャンポンになるセリフや演技が、桜姫の最大の見せ場となっております。
しかし、このお姫には幽霊が出ると噂が立ち、権助のもとへと帰されてしまいます。ここで清玄の幽霊があらわれ、権助はじつは弟の信夫の惣太で、桜姫の父少将を殺して都鳥の一巻盗んだ張本人であると告げます。
それを聞いた桜姫は権助とその血を引いている己が産んだ赤子を刺し殺します。みんごと仇を討ち、都鳥の一巻も取り戻し、お家再興を果たすのです。めでたし、めでたし。じつに新春にふさわしいお話でありました。
清玄がさらに尼さんになってしまう『隅田川花御所染(女清玄)』と並ぶ鶴屋南北の、いや歌舞伎の最高傑作です。実際の話は遥かに複雑に入り込んでおります。ヲタク文化の伝統として先行する『一心二河白道』と『隅田川』の<世界>がないまぜになっており、コラージュの妙はエヴァみたいなもんをイメージしてもいいんではないかと存じます。もっとも、歌舞伎や文楽はすべてそうなんですが。
テレビなんかとは違って歌舞伎のお姫様は本物です。それが安物の遊女になって、最後にはまた完璧に高貴なお姫様に戻ってしまう。それはこんな粗筋ではとうてい想像のつかない衝撃があります。一幕ごとに最大限に振幅する怒濤の命運が、脳髄を鷲掴みにしてぶんぶん振り廻される感覚を呼ぶのです。とくにあたしは孝夫と玉三郎という最高のコンビで観てしまったため、ほんとにショックで寝込んでしまいました。
ウェブを観て廻るかぎりでは染五郎の慣れない女形の評判が悪いですな。確かにこの話はきちんとしたお姫様が崩れていくところが眼目でそれも判らんではないのですが、あたしは真女形ではないけど姿は美しい染五郎は却ってよかったのでないかと想いました。
7年前の雀右衛門は女形としては申し分がありませんが、いくらなんでも歳でした。70の爺さんが17のお姫様に見えてしまうのが歌舞伎の魔法というもんなんですが、桜姫はさらにそこをもうひとつ越えた美しさや存在感が要求される特異な作品です。雀右衛門はいかにも型どおりの女形といった感じでしたし、今回と同じ役をやった幸四郎とも噛み合わない気がしました。
幸四郎は猿之助と並ぶもっとも新劇臭い妙なリアリズムのようなものを持ち込みたがる歌舞伎役者なのですが、今回は親子で濡れ場をやるといったこともあり、わりと遊び感覚があって歌舞伎らしくてよかったような気がします。また、染五郎なんかの若手は上の世代よりかえって歌舞伎らしさがあるんですな。まんがやアニメなんかのヲタク文化から正しい日本の伝統を自然に受け継いでいるのではないかと、あたしは睨んでおります。
もっとも、玉三郎とはとても比べものなりませんし、また権助は幸四郎のようないかにもの悪党ではなく、孝夫のようなしゅとした二枚目のほうがやはりよろしいのですが。
それよりも前回からかなりのダイジェスト版となり、今回さらに切られてほとんど違う話となっております。劇場の都合による時間の短縮ということや、ほかにも難しい問題があるようです。16年前には非人が出てくる場面がまだあったのですが。5時間ほどたっぶりやった昔を知る者には、じつに味気なくスカスカした感じでした。孝夫・玉三郎コンビでやったとしても、あそこまでの衝撃をもう一度味わえるのか心許ない気がします。何故か7年に一度しかやらないのもどうかと想いますが。あたしが完全に文楽に興味が移ってしまった由縁でもあります。
ところでウェブを廻っておりますと、たまたま松たか子の隣りに座って観てしまったという方がおりました。こんなのも親子兄妹ドンブリと申しますか、なんと申しますか、なかなかオツなものでございましょう。
じつに新春にふさわしいお話でした。
※分解されざる桜姫や因果は巡るも参照のこと。