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絶望書店主人推薦本
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2002/5/9  ヲタク的教養とは何か2

 ヲタク的教養とは何かについて唐沢俊一氏からじつに丁重なるメールをいただいた。非常に謙虚に江戸時代の歌舞伎については確かにあまり知識がなく改めて勉強しているところで、その上でまた書くつもりであるので暫く待っていただきたいとのことであった。
 あたしはよき唐沢読者であるとはとても云えんのだけど、こんな駄文をきちんと見つけ出してきて反応する姿勢には敬服する。いやしくも他人樣に情報を提供してご飯をいただく者ならば、受け手の何倍も情報に貪欲なのは当然と云えば当然ではあるのだが。少し調べれば判るようなことをさぼって適当なことを書いている学者とはだいぶ違った精神の持ち主であることだけはよく判る。内容以前の話だ。

 さて、しかし、『動物化するポストモダン』の錯誤の出発点であるヲタク文化は江戸ではなくアメリカにルーツを持つという考え方は、じつは唐沢俊一氏のミスリードによって導き出されたものであるとあたしは考えておる。これは業界裏話的なことではなく、件の本とも関係なく、ヲタク文化を解明するためには存外に深い意味を祕めていると愚考するので、以下に考察してみたい。

 話は2年前に遡る。唐沢氏の裏モノ日記 2000年10月の18日と19日に東氏のアニメ知識についての批判が載った。お読みいただきたい。
 このリミテッド・アニメの話については明らかに唐沢氏のほうがおかしいとあたしは考える。学者さんは日米のアニメの違いについて話しているのであって、そこに「リミテッド・アニメ」という言葉を出してくるのは間違っているのやも知れんが、そこで「そもそもリミテッド・アニメとは」とそっちのほうの説明をはじめるのは話がちぐはぐでまるで落語のよたろー同士の会話みたいだ。
 裏モノ日記にも「日本式リミテッド」だの「八コマ撮りリミテッド」だのといういささか苦しい言葉があるように、現状では日本アニメの特色を表す言葉として「リミテッド・アニメ」を持ち出すのはやむを得ないことである。ほんとは「あー、それはリミテッド・アニメで説明するのは無理があって、日米のアニメの違いは○○○なんだよ」と云いたいところなのだが、なんと!○○○に当てはまる言葉がないのだ!!ないのだよ!!!
 これだけヲタク文化が隆盛を誇って日本のアニメは世界一とか云ってて、日本のアニメを海外と的確に峻別する言葉がせいぜい「ジャパニメーション」なんて無内容のものしかないのは、唐沢俊一氏などのヲタク評論家の側の責任だと想っていたのだが、なんと!それ以前に唐沢氏は日本アニメは今日に於いてもすべて米アニメの影響下にあり、根本的な違いなどないと考えておられるらしい。
 これが『動物化するポストモダン』のヲタク文化は江戸ではなくアメリカにルーツを持つとか、アメリカへのコンプレックスがすべての原動力になっているとかのよく判らん想い付きの唯一の根拠となっている(件の本には他の根拠が書いてない)。
 知識が壊滅的に無いうえに少々おつむの弱い学者さんが誰が見ても明らかに共通点のある江戸文化とヲタク文化の違いを証明しないといけないように、世間一般、海外でも明らかに違うと想われている日米のアニメの同質性を唐沢氏は証明する責任がある。さらには世間の誤解を解く努力をしないことには。「リミテッド・アニメ」の言葉の定義なんていう些末なことよりも。
 当然、あたくしは反対の立場を取ります。

 裏モノ日記には「ジブリ作品などは、もはやディズニーですら行い得ない律儀なフル・アニメーションの伝統を保持していることによって注目されている」なんてことが書いてあるけど、そんなわけがありますか!米アニメにはない独自の表現が注目されているのであって、フルかリミテッドかなど問題ではない。問題は何が独自なのかである。
 現在の日本アニメの独特の動きと画面構成はディズニーやロシアなど欧米アニメの影響下にあった東映動画の流れではなく、やはり虫プロからはじまったものである。それはアメリカのリミテッドアニメよりもさらに極端に少ない枚数を強いられたことによる苦肉の策ではあるのだが、しかし、そこで導入された方式は手塚まんがの方法論をそのまま画面に移すという日本ヲタク文化にとってはじつに正統なものであったのだ。
 手塚まんがはディズニーの影響を受けている。しかし、ちょっと考えれば判ることだが動いているアニメをそのまま紙の上のまんがに移しても同じになるはずはない。止まっている絵でもディズニーアニメのように動いて視える独自の方法を編み出さなければならなかったのだ。つまり、ディズニーの影響を受けたために、ディズニーとはまったく違った方式を取ったのだ。同じことだが紙の上で映画を再現するために、映画とは根本的に違った方法論を確立した処に手塚まんがの革新性があったのだ。
 止まっている絵を動かすには読者の脳内を刺激するよりほかはない。これに成功してしまったがために動いているように視えるよりもむしろ先に圧倒的な没入感と感情移入を喚起させることになり、高度の心理描写とドラマ展開が可能となってしまったのだ!あくまで手塚治虫の目指したのはメタモルフォーゼなのだが、遥かに根源的な変容をもたらしてしまったのだ!
 虫プロアニメではほとんど止まっているに等しい紙芝居的画面をあたかも動いているかの如くの迫力を出すために、そのディズニーとはまったく違った手塚まんがの方式をそのまま導入した。最初から米国のリミテッドアニメとは一切関係がない。もちろん、欧米フルアニメともまったく違う。
 まんがの場合と同じく動いているように視えるだけではなく、圧倒的な没入感と感情移入を喚起させることになり高度の心理描写とドラマ展開が可能となってしまったのだ!『新宝島』をたんなる幼稚な絵としか受け取れなかった戦前のまんが家と同じく、欧米アニメ好きな評論家がどう云ったかは知らんが、当時の子供たちが魂を抜かれたようにして惹きつけられたという事実のほうが重要なのだ!「日本において子供たちがそれほどフル・アニメになじんでいなかった環境が幸いした」なんてことでは到底説明不可能で、唐沢氏云うところの「アニメ史」とはまったく違う、動き(視覚)ではなく脳内に直接作用するまったく新しいアニメの歴史がここに始まっている。
 あくまでメタモルフォーゼのほうに興味があった手塚治虫自身はのちにこの方式を捨てて方法論なき凡庸なるフルアニメに流れたのでいささかややこしいし、また具体的な脳内刺激法は改めて論じる必要があるが(あたしはそれなりに仮説を持ってるし、そもそもこれが江戸以前の日本ヲタク魂の神髓なのでいずれ書く)、日本アニメの特色を的確に表す言葉としてはとりあえず「手塚まんが方式」ということでいいと考える。それはフルかリミテッドかとはまったく関係なく、一度紙の上のまんがを経由しているため米アニメの影響も意外なほどないのである。人間そのままの動きは絶対出来ない文楽を一度経由した演出を歌舞伎がそのまま取り入れて象徴的な面白い型を生み出し、脳内に達する表現を編み出した経緯と似ている。
 もちろん海外の影響があるのはあたりまえのことで、これも海外の影響を歪ませながらも大きく受けていた江戸時代の文楽や歌舞伎と通ずるところがある。

 宮崎駿は東映動画に入る前は手塚まんが、東映動画を出てからは虫プロの流れと二段階に渡ってこの方式の影響下にあり、人々の注目を浴びているのはこの部分であろう。東映動画を決して軽視するわけではないが、東映動画の欧米とは違う独自な部分も日動の影響とともにやはり手塚まんがの影響が濃いとあたしは考える。
 宮崎駿の例の手塚批判も欧米的な『展覧会の絵』『クレオパトラ』や後半のフルアニメに対するもので、きちんとヲタク受けした<手塚まんが方式>の作品は巧妙に避けながら金の批判しかしていない。行間を読み取ってあげないと。

 なお、『白雪姫』などディズニー長編が日本公開されたのは『新宝島』初期SF三部作のあとで、手塚まんがはむしろディズニー以外から大きな影響を受けており、そのなかには戦前の日本独自のまんがや絵巻物などの伝統的日本美術も含まれていることは『手塚治虫 漫画の奥義』で本人が証言していることである。ディズニーや映画の場合とは違ってこちらはそのまま紙の上に受け入れやすいものではある。
 しかし、そんな直接的影響が問題なのではない。重要なのは日本人の時空間認識と世界観を身に着けているひとりの天才がまったく新しい表現方法を編み出したとき、それが文楽や歌舞伎と驚くほど似ていたという事実である。通底するもの、ヲタク魂が問題なのである。それはなによりも、眼の前にあるものとは違うものを視ることのできる力である。

 これが一番の問題なのだが、そもそもなにゆえ日本アニメの特色を的確に表す言葉がいまだにないのか。
 驚くべきことに唐沢俊一氏を含むアニメ評論家たちはいまでも欧米的フルアニメこそ本物のアニメであるという観念に囚われているらしいのだ!これは世代的なことでないらしいのは、若い編集者やライターがアニメ雑誌で持ち上げる類のアニメを観れば判る。ヲタクにも一般人にもほとんど受けていない、つまり脳内を刺激しない凡庸なるフルアニメ指向と云うか映画的リアリズム指向の作品が何故か偉いらしいのだ。理由はよく判らんのだけど。
 これは六代目菊五郎が西洋演劇リアリズムを導入して脳内を直接刺激する本来の歌舞伎が内部崩壊しかかったのと同じ流れで、ヲタク文化融解の恐れがあるとあたしは危機感を抱いている。
 ヲタク文化が江戸以前の本来の日本文化の復活であることが理解できない諸氏は昔の日本文化の知識が乏しいだけではなく、明治以降いかに日本的ヲタク精神が抑圧を受けてきたのかが判っていない。中村歌右衛門の孤独なる闘いを胸に刻み、諸氏もともに闘いを挑むように!!

追記
 唐沢氏の9日付け裏モノ日記にてご批判いただいので、少しだけ書き加えたい。
 当方は『手塚治虫 漫画の奧義』などを読んでいるので手塚治虫が戦前、ディズニー短編映画を観ていたことも大きな影響を受けていたことも識っております。ただ、世間で想われているほど決定的ではなくそれ以外の影響がむしろ大きいのは上記の本でも述べられており、それを強調したかったのであって、『白雪姫』云々は言葉足らずでありました。
 戦前の日本独自のまんがとは岡本一平とかある程度日本の伝統美術に繋がるものを指しており、このあたりも上記の本を参照いただけると。
 当方は『スピード太郎』と手塚まんがとは決定的に違っていると考えております。もちろん、ディズニーアニメをそのまま紙の上に移した戦前まんがとも違っていると考えております。それが脳内刺激の核心なのですが、そのうち書きます。
 あとはだいたいご理解いただいた上での対立があるということで。誤解をあたえた点は申し訳ございません。

 神話を暴くとさらなる神話も参照のこと。