今月の国立劇場では『夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)』をやるようです。初めて文楽を観るには一番いい演目だとあたくしは想いますので、初心者用に手引きを書いておきます。
文楽は全通しが原則で朝から晩まで10時間くらい掛かる演目が多いのですが、これはさすがに初心者にはお奨めできません。また普通の演目は複数のストーリーが複雑に入り亂れて慣れないうちはちんぷんかんぷんになりますが、『夏祭』は単線のストーリーで時間的にも3時間程度で手頃ですし、最後の祭囃子のなかでの殺し場は映像的に強烈で誰にでもインパクトを与えますから面白く観ることができると想います。パンフを買って読めば、ストーリーは完全に理解できるでしょう。
歌舞伎ですでに観ている方も本家の文楽ではどんな具合になっているか観比べてみるのもおつなものだと存じます。殺し場は人形のほうが凄慘で遥かに衝撃があるかと存じます。あらためて考えてみると江戸時代から日本人は妙なものを悦んでいたものです。
文楽の人形はリアリズムと象徴性とが複雑に交叉しながらそこに人形遣いの動きが加わるという多次元的な空間を釀し出すのですが、『夏祭』はわりあいリアリズム一辺倒で普通の時代劇みたいな感覚で、この点も初心者には判りやすい。文楽のなかでは珍しく歌舞伎の影響が濃い演目と云えます。
おそらくそのうちにNHKかBSでやると想いますので劇場に行かない方も殺し場だけは観てみてください。歌舞伎や文楽はテレビ画面で舞台を想像するのはまず絶対に無理ですが、『夏祭』の殺し場なら1/100くらいは感じ取ることができて、それだけでも相当のショックをあたえることもあるかと存じます。殺し場以外はテレビでは退屈で観る意味はないでしょう。※追記。『夏祭浪花鑑』のDVDが出たようです。
同じく映像的に初心者でも判りやすく情動搖さぶる短い演目に、降りしきる雪の中でお姫様を鞭打つ『中将姫』の雪責め、八百屋お七が狂亂しながら梯子を昇る『伊達娘恋緋鹿子』の火の見櫓なんかがありますが、これらはおそらくテレビではピンとこないと想います。舞台ならわけも判らず感動するのでお奨め。歌舞伎に移されたものより本家のほうが断然いいです。
文楽は国立劇場でも小劇場のほうでやるのですが、ここは後ろのほうはかなり観にくく音響も悪く値段も前のほうとほとんど変わりませんので、できるだけ前で観るのがよいと想います。近松半二の作品は『妹背山婦女庭訓』のような左右対称な舞台構成が多くあまり前のほうだとせっかくの仕掛けがよく判りませんが、『夏祭』なんかは前のほうがいいと想います。あんまり左右の端だと観にくいですが。
大阪の文楽劇場は一番後ろでもじつに観やすく値段も極端に安いので後ろのほうがいいです。ここは素晴らしい劇場で椅子もゆったりとして、新幹線に乗ってでも観に行く価値があります。
国立劇場は椅子が座りにくくて狭いので10時間通しなどは苦行です。閉所恐怖症のあたしくは最後尾の補助席で観ることにしています。補助席はパイプ椅子なんですがこれが結構上等で通常の席より座りやすく、後ろにズラすと広い空間が確保できます。ただし、舞台が遠くてテレビで観るのとあんまりかわらない感覚なので素人にはお勧めできない。
最初はできれば大阪まで行くほうがいいのですが。文楽劇場は空いてるので平日なら予約もせずにぶらっと行けば入れますし。
『夏祭』なんかは『新八犬伝』なんかとまったく同じ感覚で愉しめると想いますが、かなり例外的な作品だということは忘れないように。やっぱり近松半二なんかの複雜怪奇で多次元的な演目を観ないことにはほんとうに文楽を観たということにはならないと想います。『本朝廿四孝』とか。
さらには、やはり文楽は歌舞伎をひととおり観てからのほうがよいかと想います。同じ演目をやっても文楽は象徴性が高いですので、とっつきは悪いです。少女まんがを読んだことがない方がいきなり『ポーの一族』を読むような感じで、内容以前にまったく頭に入ってこないということにもなりかねません。
雪責めのようにストーリーなんかはどうでもいいビジュアルだけの作品ならいいのですが、文楽というのは象徴性が高いくせに歌舞伎よりもストーリー重視で理詰めなんですな。なかなかややこしい。
まあ、入り口さえ間違わずにここで挙げたようなものから初めて、いろいろ観てみることです。長くて地味な『忠臣蔵』や『菅原伝授』などは最初のうちは避けるように。識らないまま死ぬには惜しい代物であることは保証いたします。
ところで、ウェブ上に雪責めの写真がひとつもないのはけしからんな。あれだけ萌え萌えの映像はほかにないはずなんだが。