前回の手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はウソについて、手塚治虫本人が自分が最初と云った出典をご教示いただきました。
手塚治虫『マンガの描き方』にこういう記述があります。
「音でない音」を描くこともある。音ひとつしない場面に「シーン」と書くのは、じつはなにをかくそうぼくが始めたものだ。
このほか、ものが消えるとき「フッ」と書いたり、顔をあからめるとき「ポーッ」と書いたり、木の葉がおちるときに「ヒラヒラ」と書くなど、文章から転用された効果は多い。 |
『マンガの描き方』は何十年も前に読んでいたのですが、すっかり忘れておりました。
そこだけ普通に読めば自分が「シーン」という言葉自体を発明したと云ってるようなじつに微妙な書き方がされていますな。「フッ」などは文章からの転用と明記されていますが、「シーン」は別になっていますから。
しかし、流れから考えて手塚さんとしては「シーン」という言葉自体を発明したわけではなく、それまで文章で使われていた「シーン」をマンガに初めて導入したと云っているんでしょう。
あたしはどうせ手塚さんのことだからまた適当な法螺を吹いてるんだろと想ってたんですが違っておりました。
この本の擬音の項目のひとつ前はオーバーなアクションについての話で、「目玉がとびだすほど高い」「おこって髪が逆立った」などの文章表現の「たとえ」をそのまま絵にしてしまうのがマンガだという説明をしています。
たんにオーバーなアクションをするのではなく、文章をあからさまにそのまんま絵にしてしまうというのはなかなかおもしろい着眼点で、あたしは結構感心しました。
マンガの擬音も文章表現の「たとえ」をそのまま絵にしてしまっているんであって、もともとの文章表現とはまったく違ったものになっています。
「シーンと静まりかえった」という文章はあくまで「目玉がとびだすほど高い」のような「たとえ」で、まあ分類すれば擬態語なんでしょう。それをあからさまにそのまんま絵にしてしまうことによって、またあからさまにそのまんま音にしてしまった。つまり擬音にしてしまったんですな。
やはり、手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はホントだったのです。
弟さんの回想によると、手塚さんは小学生時代、トイレに入ると「ヒュー」とか「ドカーン」とか毎回必ず擬音を発してたそうです。これは個室内の個人的いとなみの実況中継なんですかね。昔の汲み取り式だと、爆撃の効果音は臨場感があったでしょう。
なんせ、子供の時から絵やお話創りに長けていただけではなく、擬音の面でもすでに手塚治虫だったわけですから、これはほんとに天才ですな。
実際には手塚さん以前に無声映画の活弁士が「シーン」という言葉を擬音として使っていたような気もするんですが、裏が取れませんので手塚治虫が発明ということでいいでしょう。
ウェブ上を見て廻ると、石森章太郎が最初だという情報も結構流布しています。
あたしはガリガリの石森主義者なんですが、こんな話はこれまで聞いたことがありませんでした。しかし、なんせガリガリの原理主義者ですから、石ノ森のことはまったく関知しておらず、名前を変えてからそんな話をしたことがあるのかも知れません。
ただ、ウェブ上を見ただけの印象では、手塚治虫が「シーン」発明という書き込みがあるたびに、根拠も示さずいや手塚じゃなくて石森が最初という書き込みをする方がいて、どうもひとりの人が頑張ってこんな情報を広めようとしているような気がしないでもありません。
きちんとした根拠があるなら邪推ですいませんです。ご教示いただければ。
「吹風日記」は手塚治虫が「シーン」発明という部分に訂正を入れられたのですな。手塚云々はあの記事の本論とはあんまり関係がないし、せっかく名調子のいい文章の流れをぶった切ってまで説明を入れることもなかったと想うのですが。
しかも、平家物語の「森森として山深し」の森森は静寂の意味ではないのですよ。なんかこうなってくると小姑の重箱つつきみたいで我ながらどうかと想うし、しかも「すべからく」の話で記したように言葉というのは本来の意味とは違う使い方をする処に値打ちがあるので、あんまり言葉の間違い指摘みたいなことはしたくないのですが、さすがにこの流れではまずいので野暮を承知でひとくさり。
平家物語の伝本のうち高野本ではこの部分は「深々として山ふかし」となっていて、れいの全13巻のごっつい『日本国語大辞典』では静寂の意味に取っていますけど、これは少数派で、高野本を元にしている岩波書店『新日本古典大系』や小学館『日本古典文学全集』なんかは「深々」なのにわざわざ「これは森森の間違いで森が深い意味」というような註釈がついています。
ましてや、最初から「森森」の伝本ならこれはもうどうあっても静寂ではなく木が生い茂っているという意味ですな。
前回記したように森の字には静寂の意味は元々なく、静寂の意味で「森」を使うようになったのは漱石なんかの明治以降と書こうとして、念のため意味説明はともかく用例では物量作戦で一番頼りになる『日本国語大辞典』を引いてみると、「森々としてさおとない貌(かたち)ぞ」(拘幽操師説 18世紀初め)なんてのが静寂として出てくるではないの。
「さおと」というのは「小音」で、かすかな音さえないということですな。原文も確かめてみましたが、どう読んでも静寂の意味で「森々」を使っています。うーむ。
しかし、これは浅見絅斎の講義を弟子の若林強斎がノートに書き写したもんなんです。たぶん先生は「深々」と云ったのに生徒が「森々」と書き間違えたんでしょう。
やっぱり、言葉はこうやって間違えて使ってこそ豊かになるというものなんですよ。強斎さんが間違えてくれたおかげで、漱石や啄木は「森としている」という言葉を使えるようになったんですから。
このようにちょっと確かめた限りでは「シーン」というのは、「深々」が変形していって出てきたものみたいです。間違いだったらご教示をよろしく。
『マンガの描き方』の擬音の項目の最後に、手塚作品を英訳したときに「シーン」だけはお手上げになってしまったという話が出てきます。
「まさか、「SILENT」と訳すわけにもいかなかったろう」と手塚さんは書いてますけど、文章表現をそのまま使うのならそれが一番正しいはずではなかろうかと想います。日本のマンガの擬音ものちには「シーン」から発展していって、「しずか??」とか、「静寂!」みたいな、ますます文章表現そのままのあからさまなものになっていったわけですから。
じつは擬音ではなく、こういう文章表現そのままのあからさまという処に日本文化に隠されしすべての秘密を説き明かす秘鑰があったのだ!とここで論証すれば歴史に残る大発見になるやも知れませんが、いまのとこあんまり掘り下げて考えてないのでたんなる想い付きです。
<手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はウソ>を書いた時に、実際にはマンガに最初に導入したということなんだろうとは考えていたのですが、そのことにどれほどの意味があるのかあたしは疑問を抱いていました。
たとえば「ドッカーン」という擬音をいかにも爆発しているが如き形象で描くことはマンガ表現としてそれなりに意味があるんでしょうけど、「シーン」はそれほど形に凝れるわけでもないし、それまでにあった文章表現と何が違うのか。ことさら云い立てるほどのことなのか。
しかし、文章表現そのままのあからさまという処に着目すればいろいろ見えてくるというのは発見でした。
なにより、あたしにとって発見だったのは、なんだか肩書きだけに頼った通り一遍のつまらないテキストだと何十年前に一度読んで忘れていた手塚治虫『マンガの描き方』が、存外に深い考察を元にして考え抜かれた構成をほどされている本だということでした。
いや、これはほんとに驚いた。手塚治虫すごいな。
手塚治虫関連の絶望書店日記
○ブラック・ジャックの素
○ブラック・ジャックの素2
○神話を暴くとさらなる神話
○手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はウソ
「ぱふぱふ」はなぜ消えたのか、聞こえない音、エロい日本のドラクエというのを読んでいると「最強はやはり手塚治虫が考案したと言われる無音を表す擬音「シーン」です。まさに神の仕事です。」なんてな一文にぶちあたる。
うーん、手塚治虫が考案ってほんまかいな。無音を表す表現として「森」というのは昔からあるけどな。
「しん」を「シーン」に変えたのが手塚だということか。あるいは、描き文字にしたということか。はたまた、その刹那に無音を表す擬態語という、まあ想定できなくもない表現を、無音を表す擬音という、矛盾、逆説、反対物の合一に変容させてしまって、驚天動地の言葉の革命が為されてしまったということでもあるというのであろうか。
太鼓をゆっくりと静かに鳴らす歌舞伎の「雪音」は、あくまで雪の降る音を表現しているのであって、無音を表しているわけではないし、「シーン」の登場は確かにひとつの画期ではあったのやもしれぬ。
手塚云々についてはもひとつもやもやと胸に落ちぬまま、そもそも無音を表す表現として「森」というのはいつ頃からあるのであろうかと検索してみれば、『坊っちゃん』に「もう足音も人声も静まり返って、森としている。」というのが出てくる。
検索してみて驚いたのは、「森としている」という言葉が、漱石や芥川、下村湖人、宮本百合子なんかの再録を除くと、現代のウェブに於いて使用している人が4人しかいないという事実だ。
いや、もっと驚いたのは絶望書店主人がこれまでただの一度も「森としている」と記していなかったらしいことではある。これには随分驚いた。いかにも絶望書店主人が使いたがりそうななにやら小難しげな嫌らしい言葉ではあるのに。
「森として」になると本来の緑のモリの使用例が多くて、擬音だけを抽出する検索語も「静か」「擬音」くらいしか想い付けないうえにこれではうまくいかず、よく判らんな。
緑のモリの「森として」なんてへんちょこりんな云い廻しを使ってる人がこれだけ大勢いて、森に隠されて埋もれてしまうほど少ないことだけは確かなようで。
さらに小学館『日本国語大辞典』(全13巻のごっついやつね)を繙くと「お座敷は三月しんとしづまりて」(俳諧・毛吹草 1638年)、「各(おのおの)しんと座をしむれば」(滑稽本・古朽木 1780年)、「雪の夜で蕭然(シン)としてゐるから」(三遊亭円朝・真景累ヶ淵 1869年頃)、などの用例が出てくる。
『坊っちゃん』は1906年で、前年の『琴のそら音』でも「頭の中へしんと浸み込んだ様な気持ちがする」と漱石は使っているけど、こっちは躯に浸みるという意味ですな。
ちなみに、「しいん」だと「四辺(あたり)はシインとして来る」(久保田万太郎・末枯 1917年)、「彼女の心はしいんとしたなりで」(有島武郎・星座 1922年)、などの用例しか『日本国語大辞典』にはなく、それ以前はないのかも知れぬ。
青空文庫で検索してみても、水野仙子『ある妻の手紙』の「朝の氣の漲つたぐるりは清淨で、そしてしいんとしてゐました。」1917年が一番古いか。「どんぐりは、しいんとしてしまひました。それはそれはしいんとして、堅まつてしまひました。」という宮沢賢治『どんぐりと山猫』は1921年か。
ただ、青空文庫は初出情報が抜けてるのが多いのでよく判らんな。欠かせぬ情報で、テキスト化するための本が手元にあればすぐに記せることなのになんで抜けてるのが多いんだろ。その他の情報も載せた「図書カード」へのリンクが本文にないのも不便だけど、なんでだろ。
『大漢和辞典』や『字通』を見ても「森」の字自体には静かという意味はないようで、あるいは「しんと」に「森」の字を当てたのは洋行帰りの漱石が最初だったということはあるかも知れん。石川啄木『天鵞絨』の「世の中が森と沈まり返つてゐて」は1908年か。
歌舞伎の下座の無音の表現としては、「雪音」よりも「山おろし」のほうが近いような気がする。元々は山の風の音を模したものだろうが、いまではすっかり様式化して山奧深くのおごそかな印象を醸し出すための効果音となっている。いや、おそらくは最初からこういう効果を狙って太鼓をどろどろと鳴らすのであろう。
無音と山奧だとか森だとかはやはりなんらかの繋がりがあるらしい。「森」という字に静かという意味はないが、おごそかだとか鬼気迫るといったような意味では古来使われていて、「森」などという絶望書店主人の如き輩が使いたがるようなはったりめいた重さを拭った「シーン」になったことは意味のあることやも知れぬ。
「しんと」もやはりなにやら重たい引き締まった意味を背負ったままの擬態語であって、意味を脱した軽やかなる擬音の境地まではまだ達しておらぬように感ずる。
※追記
青空文庫で「シーン」を検索してなかった。『日本国語大辞典』に無音の意味では載ってなくて、引きずられてた。
島崎藤村 『岩石の間』の「余計にシーンとした夜の寂寥が残った。」1912年がちょっと調べた範囲では一番古そうだ。なんだ、「しいん」より古いのか。
小林多喜二『人を殺す犬』の「瞬間シーンとなった。誰の息づかいも聞えない」は1926年。中里介山『大菩薩峠 流転の巻』の「満場をシーンとさせました。」はウェブ上では何年か判らんな。こんなとこがウェブはまだまだですな。
青空文庫全文検索サイトの「初出年順」というのは何を元にしてるんでしょうか。初出情報がないものも含めて微妙に正しいようなズレてるような順番に並ぶけど。なんの説明もないので判らない。
『日本国語大辞典』には「彼女の心はしいんとしたなりで」と掲載されてる有島武郎『星座』が青空文庫では「しーん」になってるな。手塚治虫じゃないけど、あとで書き換えることもあるし、それほどは当てにはできんけど、少なくとも手塚治虫より前に「シーン」が存在したことだけは間違いない。
あらためて見て回ると、手塚治虫が「シーン」を発明というのは結構広まっておりますな。
最初にこんなことを云い出した輩がどういう意味合いで云ってるのかはよく知らんけど、ウェブ上で見る限りではみなさん普通に「シーン」という擬音を考え出したと信じているようで。ウェブ上の情報だけでも簡単に間違いだと判ることなんですけどな。
ちょっと、積極的に間違いを正しておくか。
つーか、手塚治虫本人が自分が最初と云ったっぽい。さもありなん。裏は取れてません。
※さらに追記
「吹風日記」へのトラックバックがうまくいかんな。こいつの影響なんか。
へたれ引き籠もり絶望書店日記開闢以来初のトラックバックだったのに。
※しつこく追記
手塚治虫『マンガの描き方』に「シーン」についての言及があるとご教示いただきました。
手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はホントをご覧ください。
手塚治虫関連の絶望書店日記
○ブラック・ジャックの素
○ブラック・ジャックの素2
○神話を暴くとさらなる神話
日本のアニメについて以下の如くの神話がある。
「手塚治虫は日本初のテレビアニメを製作したという称号を得るため、また市場を独占するために莫迦げたダンピングをし、その極端に安い制作費のために動画枚数を減らさざるを得ず、苦肉の策として日本独自の特異なアニメ表現が生まれた。また、こんにちに至るまでもアニメーターが劣悪な労働環境にいるのはすべて手塚治虫の責任である」
とくに前段に関しては手塚治虫自身があちこちで吹聴しているので、そのまま真実として広く受けとめられている。しかし、これは論理的に考えてかなりあやしい話だとあたしは考えておる。
これだけ安い制作費ならほかの会社は莫迦莫迦しくて参入してこないだろうからアニメ市場を独占できると手塚治虫は語っているが、成功したとしてもあくまでテレビだけの話でアニメ映画はすでに東映動画が確固とした地位を占めている。また、日本初の称号もテレビだけのことだし、テレビでもすでに米アニメがいくつも流されて人気を博していた。
いずれも「日本のディズニーになるため」と云ってるが、どうも論理的な関連性が成り立たないように想う。
実際すぐに他社も参入してきたが、あれほどライバル心の強い手塚治虫が怒ったという話も聞かないし、それどころか自分のまんがのアニメ化権を他社に渡したりしている。
ほかにもいろいろ理由は語っているが、テレビ局側からの提示をも大きく下廻る通常の制作費の1/3という無茶苦茶な値段にする意義はどう考えてもなかったはずで、つまりこの話は根本的におかしく手塚治虫は嘘を云ってる。だいたいテレビアニメ参入の理由が、それまで手塚のポケットマネーで創られていた実験アニメの制作費稼ぎということになってるのだから、わざわざ赤字にするのは最初から話が合わない。
あたしはこの何年か手塚治虫関連の資料を読んで考えてきてこれには確信を抱いているが、手塚治虫は自分ひとりで完全にコントロールできるアニメ制作を望んでいたのだ。
つまり、制作費が安いから動画枚数が減ったのではなく、最初から手塚治虫ひとりですべてに関われるような枚数にするために制作費を極端な安値に抑えたのである!手塚治虫はまんがに於いてアイデアから絵までひとりでこなし、死ぬまでアシスタントには背景しか描かせなかったが、アニメに於いてもスタッフをたんなるアシスタントとして遣い、週1回のテレビアニメを個人の作品としてやらかそうとしたのだ!
ほとんどまんがそのものと云っていいあの紙芝居的アニメは、制作費の安さからの苦肉の策ではなく、手塚治虫が選び取った必然であるのだ!<手塚まんが方式>という言葉はその意味からもじつに正しい。アニメというのは共同作業でしか製作できないはずなのだが、ひとりの作家の完全な指定通りの作品に仕上げるには、止め絵の連続でせいぜい口がパクパクするくらいしか動かない<手塚まんが方式>がいかに適していることか!通常のリミテッド・アニメではコントロールから外れてしまうのだ。何故なら動くから!
まあ、実態はいろいろ複雑でそう簡単に説明できるものでもなかったようだが、少なくとも『鉄腕アトム』の初期などは全動画を完全に指定した手塚治虫個人の作品と云ってよく、莫迦げた目論見が成功している。わずか40人のスタッフで週1回のアニメを製作した当時としては革命的なことも、さらに凄まじいこの事実からは霞んで見える(手塚方式があたりまえになった現在からではなく、何千人のディズニーや何百人の東映動画の何年も掛かる共同作業しかなかった手塚前史のアニメ製作から見るのですよ。何本もの連載を抱えたまま、同じことをひとりで週一でやろうとしたと云ってるんですよ!そんなことを想いつくだけでも凄すぎる)。
手塚治虫としてはテレビ局から仕事を請け負っている意識などまったくなく、自分の作品を流すために逆に放映時間を買うくらいの気持ちだっただろうから制作費などどうでもよかったであろう。しかし、自身の怪物の如き慾望を満たすためにこの制作費を極端に抑えることが有効であることを、意識的にか無意識的にか感じ取っていたに違いあるまい。初期には養成に時間が掛かるためにスタッフを増やせないということもあったようだが、将来的にも少人数に抑えて完全にコントロールするための保障として。
後段の話もいくら虫プロが安く受けたとしてものちに他社が値上げ交渉をすればいいだけのことで、他社が海外との契約を虫プロほど有利に運べなかったことを見ても、手塚治虫でなければうまくいったというのはいかがなものかと想う。だいたい、まともな値段で受けていたら当然まともな枚数のまともなアニメを週一で製作していたわけで、労働条件は却って悪くなっていた可能性さえある。少なくとも作品の質は落ちていたとあたしは考えるし、人気が出ずに日本アニメは早々に消滅していた可能性もある。
つまり、あの話は丸ごと神話にしか過ぎない。問題は神話の奧に隠された真実がさらに驚くべき人智を越えた神話であったということなのである。
前回のヲタク的教養とは何か 2で手塚治虫のことを出したのは、いくらなんでもヲタク文化は手塚治虫までは遡って考えろということです。現在のアニメ表現もべつに金田や板野から始まったのではなく、『アトム』の第一回にすべての芽があった、と云うよりすでに完成していたと云ってもいいくらいで、それは手塚治虫まんが、少なくとも『新宝島』から始まってることぐらいは理解しておかないと。
むしろ、60年代70年代のあの憎むべき劇画(うぺぺぺぺぺっっ)を間にはさんで、手塚治虫自身はとうとう取り戻せなかった初期手塚の復活が現在のヲタク文化と云ってもよい。先行する雑多な作品から膨大なイメージをいただいてきてモザイク的に作品化することも、なにより<萌え>も、手塚治虫がデビュー当時からまんがに持ち込んだことなんですから。なんであたしが劇画嫌いかというと、くだらないリアリズムが入り込んだとともに<萌え>が排除されたからですな。
現在のヲタク文化は江戸以前の日本精神の回帰という大きな復活と、初期手塚治虫への回帰という中くらいの復活で成り立っている。少なくとも後者は明確に影響を辿れるもので、しかも手塚治虫が意識的に切り開いた道筋であるのだから、決して見失うことなどなきように。
なんにせよ、いくらおつむが弱くとも海外のくだらない理論で日本のヲタク文化を語ることが無意味なことくらいは判りそうなもんですが。つーか、よそからもってきた枠組みに当てはめて何でも説明するなんて愚かしいことをいつまで続けるつもりですかね。歌舞伎も識らない日本人同士がコジェーヴがどうしたとか観ていて可哀想で涙がこぼれるようなゲームをやりたいだけならほかにいくらでもコマはあるでしょうから、ヲタク文化だけは勘弁してくださいよ。
この手のことが最近始まったなんて云ってるのはくだらない枠組みにむりやり嵌め込みたいだけなのか、それとも江戸文化だけではなく手塚治虫のことさえ識らないのか、いずれにしてもあたしは知識不足を指摘しているんではなく頭が悪いと云ってるんであって、その点はくれぐれも誤解無きようにお願いいたします。
虚心坦懐に対象だけを見詰めれば、こうやっていくらでも視えてくるものがあるでしょうに。
手塚治虫に関する考察は ブラック・ジャックの素と続きの2で展開しておるので、未読の諸氏は必ず奉読するように!!
『風の雀吾』って2巻本だったのですな。どうも、記憶がはっきりとはしませんが、最後まで読んでるはずですから2冊読んだのでしょう。
こんな商売をやっているのに『風の雀吾』は探索していないのですが、これまで無意識に避けてきたようです。
人の家で一回読んだだけですので、ただでさえ複雜怪奇なあの話はほとんど覚えていないのですが、雀吾がはたして勝ったのか、あの宇宙の謎のようなものは解き明かされたのか、そもそもそんな話だったのか、確かめるのが怖いのですな。
あらためてよく考えて絶望書店の出自を辿っていってみると、どうもこの作品につながってしまうようなのです。
あの頃はまさか己が雀吾と同じような訳の判らない宇宙に放り込まれて、訳の判らない闘いを強いられるとは夢想だにしていませんでした。昭和59年ということは16年前ですか。あたしもまだ若く無垢でした。絶望もしていなかった。
『風の雀吾』についてつくづく想うのは、極めて一部とは云えあれだけの衝撃を持って迎えられたのに、マニアにさえほとんど拡がりを見なかったということです。ネットのない時代とは云え、異様ですらあります。
いま検索してみましても、言及しているのは十人ほどしかおりません。何故なんでしょうか。『風の雀吾』は一見して決して難解でも芸術的でもなく、誰でも楽しめる作品のはずなのですが。
近頃はウェブ上にも個性的な本屋が増えてきたようなんですが、じつはよく見ますとみんなガロ系と云いますかペヨトル系と云いますか、なんかそんなような系列に分類できます。下北沢的と云いますか中央線的と云いますか、マイナーとか云いつつも、おしゃれな男女がつどってけっこう愉しそうにやってる路線です。ほんとうにどこからもはみ出して爪弾きにされているのは、依然として絶望書店くらいのものです。
世の中変わったようでいて、マイナーの世界はあまり進歩していないような気がします。受け入れられるのは依然としてガロ・ペヨトル系と申しますか、サブカルと申しますか、どうもうまく云い表せないのですが絶望書店とはまるっきり別世界のそんなような路線なのです。当時『風の雀吾』に喜んでいた連中も、魂を顫わせるほど真剣には読んでいなかったように想います。
この手のほんとにマイナーな、心に傷を負った人々のためだけにあるはずの存在は<トンデモ>とか呼ばれて、じつはそれほどマイナーでもなく陽の当たる処を歩む人々にギャグとして消費されてしまうしかないのでしょうか。
どこにも居場所の無くなった真の絶望者のための『風の雀吾』の闘いは、まだまだ果てしなく続いてゆくのです。