阿佐ヶ谷ラピュタで『赤頭巾ちゃん気をつけて』をやってたので観てきました。
内容はともかくとして、これほど配役が完璧な映画をあたくしはほかに識りません。とくに由美役の森和代は秀逸!怖い貌してこっちを睨み附けてる女の子です。
冒頭のエンペドクレスのサンダルのくだりなどはこのコンビでないととても成立しないでしょう。いや、さすがにこの場面はこのふたりでも苦しいか。
ちょうどいまファミリー劇場でテレビドラマ『兄貴の恋人』を放映してまして、鈍感な兄の夏木陽介に近親相姦的思慕を寄せる妹役を、またもや怖い貌して睨み附けながらやっております。
これほどへたくそな演技がぴったりはまって魅力にまで転じることのできる女優が果たしてほかにいるでありましょうか。いや、おるまい。なんせ、ぶすっとした表情で相手を睨み附けながらぶっきらぼうに喋るのに、不良でも委員長でもなく、山口百恵のような薄倖キャラでもなく、天眞爛漫な可愛い子ちゃんというなかなか得難い位地を占める特異なるキャラなのであります。
森和代というのはもともと『装苑』のモデルだった方で、二十歳で3作品(つまり上記のほかにはひとつだけ)に出演し、二十一歳で森本レオの嫁さんになって引退してしまった幻の女優なのです。
ぬおおおお!おのれえー森本レオめー!森和代を返せぇー戻せぇー!もっと睨ませろー!いやいや、あたしだけを睨み附けてぇー!あー!
まあ、もっとも、帰せと云われるうちが花か。ぴっちりかっきり1970年だけというのも見事だし。岡田裕介も好きだったのに、若いうちに完全に消えてくれさえいたら・・・・
森本レオはまだ名古屋でDJをやっていて、ラジオの放送で猛烈なアタックを掛けて強引に結婚まで持っていったそうです。森和代を嫁さんにしたあとに上京して俳優になったそうで、森本レオ・・・・・、なんだかあんたはやっぱり偉い。
ところで、いまのお若い方は『赤頭巾ちゃん気をつけて』なんて読んでるんですかね。あたくしは軟弱者なので、サリンジャーよりも庄司薫のほうが好きだったりします。
ああああー、「軟弱者」ってぶっきらぼうに云われて睨まれたい~~
※追記
原作の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んでピンとこなかった方でも、そこでやめてしまうのは惜しいです。薫くんシリーズ四部作の完結編『ぼくの大好きな青髭』は、その前の三作とは数段違った傑作です。若いうちに読むことをお奨めします。
いつもの如くに前フリが長いので、特撮に興味のない諸氏は後半だけでも必ず読むように。
最近になって特撮映画をまとめて観るようになって、どうも特撮ファンの中には土屋嘉男に格別の注視を注いでいる方が結構いることに初めて気付くようになった。
もちろんいい役者さんではあるしやってる役も宇宙人の電波を脳内受信したりガス人間だったりとへんてこなのが多いのでまあ判らんわけではないのであるが、ただ例えば平田昭彦や中丸忠雄のようにへんてこオーラを発しているいい役者さんがいろいろいるなかで殊更へんてこ役者として土屋嘉男を挙げるのはもひとつあたくしにはピンとこないところがあった。
それが阿佐ヶ谷ラピュタで円谷英二特集の第二弾がはじまって『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』を観るに至って、ようようあたくしの胸にも落ちたのである。
この映画に出てくるフランケンシュタインは子供の頃観てもっとも怖かった怪獣で、ほんとに夜中にぬっと現れるのではないかと想える圧倒的な存在感(あの貌とともに団地との縮尺が効いてる)と、まったく反対に自分がああいう境遇に陥ってしまったらどうしようという強迫観念を幼いあたしに刻み附けたのでありました。立場の相反する二重の感情移入を同時に喚起せしめた怪獣は、いや怪獣以外でもあるはずもなく、『マタンゴ』や『サンダ対ガイラ』以上のトラウマをあたしに刻印し、いま実際にあんまりかわらない境遇に陥ってしまった遠因になったのではないかと考えている。
何十年かぶりにその想い出の彼に再会できることを愉しみにしていたのだが、彼を差し置いてあたしの眸は土屋嘉男に釘付けになっていた。いやあ、こりゃ、ほんとにへんだ。あたしはこれまで数限りない物語を浴びてきたが、これほどへんてこな登場人物をほかに識らない。
この人のほかの役がへんだと云っても、宇宙人に操られたり気狂い博士に改造されたりといったそれなりにやむを得ない理由というものがあった。この映画ではなんの理由もなくまったく関係のないふたつの重大事件に何故か偶然立ち会い、誰に操られるわけでもなく何故か自ら事件に深入りし、事件解決にはなんの役にも立たず、それどころか物語自体にもなんの役にも立たないまま意味ありげに途中で退場した切りぷいっと帰ってこない。いったいなんのために出てきた登場人物なのか一切の説明を峻厳として拒む宙ぶらりんの不安な存在としてただそこにある。
そんな訳の判らない役をまた重厚に嬉しそうに演じていて、そもそもこの確かな演技があるからこそどうでもいい端役ではなく物語の無意味なる重しとして我が舊友のフランケンシュタインを脇に押しやるほどの不安を掻き立てているのであって、当時からへんてこ役者として認知されていてわざわざこんな役を用意してもらったのであろうか。とにかく「土屋嘉男なんだからしょうがない」とでも想って諦めるよりほかはない役ではある。
普通の人なのに人智を越えた運命に見舞われ物語にさえ拒絶されるとは、立派な最期を飾らせてもらえたガス人間よりも疎外された悲しい存在と云える。
ここで俄然興味の湧いたあたしは初めて「土屋嘉男」で検索し好きで悪いか土屋嘉男に辿り着いたのであった。あー、長い前フリ。
去年の末から特撮映画を立て続けに観るようになって、ここの特撮映画評も読んではいた。しかし、表紙を観ていなかったので、ここが世界で唯一の土屋嘉男サイトであって、作者である女性が若くして一年前に亡くなっていることにその時までまったく気付いていなかったのである。
楽しんで読んでいた文章の書き手がすでに死んでいたという事実にあたしは意外なほどの衝撃を受けた。本ではこんなことはないのだが。もっともあたしは古い本しか読まずにこういうことがあんまりないせいなのかも知れんのだが、はたまた、ウェブは歴史が浅くこういうことがまだあんまりないせいなのかも知れんのだが、とにかくスタンドアロンで時間を超えている本と、一応繋がっていてリアルタイムのような気がするウェブサイトとの差異とはなんであろうかと改めて考えさせられたりしている。インターネット上では性別や年齡差を越えてしまうことがあるが、こういう生死の差を超えるようなことがこれから当たり前になるといろいろややこしくなるのであろうか。電話で愉しくおしゃべりした相手がじつは死んでいたという感覚。
また、作者の死んだあとに残るウェブサイトとはいったい何者であるのだろうかということも時々話題になることがあるが、実感を持って考えさせられたりしている。
文学少女の遺稿集が本になったりするのはよくあることで、ごく稀に『薔薇は生きてる』の如き奇蹟的な本が生まれたりするが、この沙魚川無腸という女性のサイトもそれに匹敵するくらいの珠玉の出来ではないかとあたくしは考える。
この方の文章はこちらやこちらにもあるが、特撮関係もそれ以外もレベルが極めて高くておもしろい。ヲタクの遺書としては理想的なんではあるまいか。
おまけに、白血病になる前のものだと想われるがこのページの下の方には「遺言」と銘打たれた文章までがあり、こちらも見事だ。ウェブ上のあちこちにこの人は足跡を遺しているが、総体としてじつに見事だ。お嬢さま、お見事でございました。
いろいろ観て廻った限りではこの方の友人たちはサイトの契約内容を把握しておらず(自分のサイトのことさえ判らなくなるのはよくあることでやむを得まい)、消滅するのは時間の問題だと想われる。もちろん、サイトは無くなってもデータは受け継がれ、友人がすぐに違う場所に同じものをアップするであろう。しかし、果たしてそれが厳密な意味で同じウェブサイトであると云えるかというとあたしにはいささか疑問がある。
デジタルデータにとってオリジナルやコピーがどういう意味を持つのかということも考えさせられる。それは本とは何かということにも繋がるの問題であるのだが。彼女自身が遺して今現在も現としてあるあのサイトとは果たしてなんなのであろうか。ウェブ上でしか識らない者にとってはやはり彼女自身なのであろうか。
この先、死者と生者のサイトが混在するようになってくると死んでいるとは想わずに、はたまた死んでいる相手と判っていて恋愛感情を抱いたりする輩が出てくるのやも知れぬ。少なくともあたしには、すでに死んだ本の作者や映画の役者より実感のある相手に想える。
翻ってやはり一番考えさせられるのは、己は果たしてたったいますべての更新を断ち切られたとして、消去さえ適わなくなったとして、遺書として恥ずかしくないサイト構築をできているかということではある。
もっとも、あたしの場合は死んでもウェブ上にその情報が流れることもなくただひっそりと消滅し、明確な死亡確認でもできない限りデータを受け継いで勝手にアップする者もないであろうからせいぜい一年分の心配をすればいいだけのことなのだが。
勝手にひとのサイトを保存しているお節介なサービスもあるとは云え、あれは不思議と自分の書いた文章だという実感がない。曲がりなりにもこちらにオリジナルがあるせいで、こっちが消滅すればあっちが遺書になるのやも知れんが、やっぱりただの写しのような気が何故かする。
まあ、なんにせよ、これだけのサイトをいままで識らなかったというのは特撮映画も眞面目に観ないといかんということだな。
ところであなたのそのサイト、遺書として恥ずかしくはないですか?
今年の南米選手権(コパ・アメリカ)は、ただでさえ爆弾テロ頻発で物騒なコロンビアでの開催で大丈夫なのかいと云われていたのですが、コロンビア・サッカー連盟の副会長が左翼ゲリラに誘拐されてしまって、開幕二週間前に中止(ほんとは来年に延期ですが、半年で治安がよくなるわけもなく、W杯なんかの日程びっしりの来年にまともな大会が開けるはずもなく実質中止。最初は当然開催国変更が検討されたものの面目丸つぶれとなるコロンビアの強力な反発で中止に一旦決定。ここでまた莫大な投資をしていたコロンビアの強硬な抗議でやむなく延期に変更。この時点ですでに事態は三転以上してる)が決定されてしまいました。
可哀相なのは唯一の目玉番組をなんとか盛り上げようと頑張ってたWOWOWで、お詫びの放送はテレビ史上に残るような荘厳なまでの悲惨さがありました。おそらくWOWOWが潰れるときもこれほど悲壮感あふれるものにはならないと想います。潰れるのは何となく判っていることですが、今回のことはなんと云っても常識を越えた寝耳に水のことでありますから。
ところがこのお詫び放送を待ってたかのように、左翼ゲリラが「うちらもサッカー観たいけんネ」と人質を解放し、南米サッカー連盟も「テレビ局への違約金とっても高くて払えんけんネ」と、なんと!開幕一週間前に予定通りコロンビアでやることを決定してしまいました。
おそらく乏しい予算と短い日数で全26試合生中継+再放送+関連盛り上げ番組と膨大な編成(映画50本以上を二週間で調達しないと埋まらない!)をやっと取っ替えたWOWOWもびっくりしたでしょうけど、中止になってやれやれと想っていた参加国もびっくりで、優勝候補筆頭のアルゼンチンなんかは開幕前日まで揉めたあげくに参加を辞退しました。他国も一流選手は危ないから出せないとBチームを送り込んできました。
こりゃどうなるのかいなと想っていましたら、アルゼンチンの代わりに急遽招待された中米のサッカー無名国ホンジュラスが大活躍で、ほかの試合も胸躍らされるような素晴らしいものばかりで、二週間たっぷり堪能いたしました。
とくにブラジルの負けっぷりはまさしく王国の凋落を知らしめるような見事なもので、今年は幾度となくブラジルの負け試合を観せられておりますけど、ここまでおちょくられたようなやられっぷりは初めてで、もちろんBチームではありましたが半分はAでコンフェデのときより遥かに貌ぶれは上、最期の名将フェリペが監督で相手がホンジュラスなだけに、西ゴート族に侵入されたローマ帝国の如き歴史の転換点を観せられたような想いがいたしました。この試合を観てない方はブラジルの落魄について決して語らぬように。
結局、選手を揃えることのできた地元コロンビアの大会初優勝でなんだかなあという結末ではありましたが、昨シーズンの各国リーグ戦は対抗馬不在のままの順当な展開ばかりで、W杯予選では波乱がありましたけどなんだかもの悲しい内容で、全般的に低調だった年のなかでは飛び抜けて面白い大会でした。
いや、大会前から存分に楽しめて、決勝戦なんかもテロに備えて軍隊びっしりの競技場にパラシュート男が試合中に降りてきたり(中継ではたんなるお騒がせ男だと云っておりました。たしかにセレモニーのパラシュート隊はずっと前に降りてきてましたし服装も違っておりました。ほんとのところはよく判らない。大会中止や開催国変更という当然の提案をした他国を侮辱だと怒っていたコロンビア大統領の安全をアピールするためのジョークかも知れん。コロンビアが負けてたら撃ち殺されるような場面で試合を中断させてた)といろいろあったせいでもありますが、内容も素晴らしかった。
来年のW杯でシードされる地元日本は比較的弱いとされている中米の国と当たる可能性が高いのですが、この大会で中米の手強さは存分に観せつけられました。日本が上位進出するにはコロンビアが編み出した方式しかないのではないでしょうか。赤軍派やオウムなんかに頑張ってもらって犯行予告をしてもらう。彼らの海外での評判は国内より高いですから、強豪国や一流選手は参加辞退してくれます。
そんなW杯で面白いかと仰るやも知れませんが、一番観たかったオランダがすでに絶望的でブラジルもかなり怪しい状態ですから大して変わりません。なによりこういう非常事態になるとマラドーナ代表復帰というウルトラCが巻き起こる可能性も。今回の大会も選手は危なくて行かなかったのにマラドーナだけは招待に応じてVIP席で観戦していたようですし。
もっとも、日韓関係悪化でほんとにこんな具合になってしまうような気も。
えーと、ウェブによくあるような文章で恐縮です。それぐらい今回のコパ・アメリカが面白くて、観ている人がほとんどいないようですので。ウェブ上を探し回っても観戦記がひとつも見つけられませんでした。
まるでミッドウェー海戦の航空母艦の甲板上の整備兵の如くに度重なる事態の変転に飜弄されながらもきっちりと放送を果たしたWOWOWの努力はまったく報われなかったようでして、眞っ白のままだったテレビ誌の番組欄と悲愴なるお詫びの放送自体さえも虚しくなってしまうというその滅びの美しさを記録しておきたかったものですから。
ドキュメンタリーを制作すれば感動的なものになると想いますよ。WOWOWは元を取るためにも潰れたあとに名を残すためにもやってみられてはいかがなものでしょうか。
しかし、こんなようなありふれた文章を毎日ウェブに書いている方はなにが面白いんでしょうかね。あたくしにはよく判りませんね。
ブラック・ジャックの素『ジキルとハイド』の最終回があまりにあまりなことになっていて、おくちあんぐりの絶望書店主人でございます。
これはやはりとてもテレビでやるようなしろもんではございません。アングラ映画館あたりでこっそりと上映するのにふさわしい。そんな怪しげな処で昔観た『フリークス』なんかよりは遥かに強い衝撃を受けました。
アイコン屋のこのページに画像が少しだけあるのですが、残念ながらあまりブラック・ジャックには似てない貌が載っています。ジキルとの左右合成シーンもずれたものが載っていて、ぴったり重なった部分はありません。まあ、ビデオキャプチャーを買うこともなく勝手にリンクを張る当方とは意図が違うのですから、致し方ございません。
ハイドは妙なスタイルのコートを着ているのですが、その全身を観れば誰もが頷くほどそっくりです。とくに大勢を相手に立ち回りをするシーンなんかはそのままだと感じられます。
最終回は「気狂い」なんて言葉が連発されてそのまま流されていたのですが、一カ所だけ松尾嘉代のセリフが消されておりました。いったいどんな凄いことを叫んでいたのか、どうにも気になりますのでお判りの方は教えてください。
ラストは「誰でもがハイドの部分を秘めているのかも知れない」といったこの手のお話にはありがちの問い掛けで締めていたのですが、さすがにこの丹波哲郎ほどデーモニッシュな狂気を持ち合わせている奴はいるかい!と想わずブラウン管に向かって突っ込んでしまいました。
いや、ひとりいるとすれば、それは手塚治虫その人でありましょうか。
ぼーぜんじしつになってしまった頭を整理しようと石上三登志の『手塚治虫の奇妙な世界』を読んでいて、「ロボットは成長しない」というのが『鉄腕アトム』の中心テーマであることを想い出しました。生涯のテーマであったメタモルフォーゼに反するふたつの作品が手塚治虫の代表作となっているのはなんとも皮肉な話です。
石上三登志さんによると手塚治虫は天馬博士と同じく成長しないアトムを憎み、あの手この手で何とかロボットに<成長>を持ち込もうと足掻いたのだそうです。
また、『火の鳥』の最後は『鉄腕アトム』になる予定だったというかなり確実な話がありまして、手塚さんは宇宙を支配する神秘の力の手を借りてまでもアトムを成長(メタモルフォーゼ)させたがっていたのでしょうか。あるいは、成長しないロボットと對峙させることによって、メタモルフォーゼする生命の神秘を逆照射させようと目論んでいたわけでしょうか。
こういう『鉄腕アトム』へのこだわりと比べて、『ブラック・ジャック』のあつかいはなんとも不思議な気もします。
ロボットとは違ってこちらにメタモルフォーゼを持ち込むのはなんの問題もない、いやむしろ手塚治虫お得意の二重人格(メタモルフォーゼの一種)を授けるのが自然なはずなのに、ブラック・ジャックもピノコもいかにもな設定でありながら絶対に変身しないのです。かなり意識的にメタモルフォーゼを避けている。両極の性格は二重人格の如く変身によって切り替わるのではなく、ドストエフスキー的にひとつに融合している。それでいて、アトムのように作者に嫌われることもなかった。
メタモルフォーゼの殿堂・虫プロ倒産から手塚的二重人格の典型『三つ目がとおる』開始までの一年間は、手塚治虫最大の危機で誰もが再起不能だと考えていた時期です。すでに過去の人だった手塚さんが少年誌でヒットを飛ばすなんて想像もできなかったし、借金は莫大な額でした。結局すぐに二大ヒットが出たわけですが、この期間さすがの手塚さんにも心境の変化があったのか、『ジキルとハイド』オープニングの左右合成された丹波哲郎の貌の衝撃がそこまで強かったのか。
手塚さんは時代ごとにいろんな作品から影響を受けていますが、ここまで根本的に変革を迫られるほどの力をおよぼしたのは丹波哲郎の貌だけだったような気がします。単なるテクニック上のことではなく、当時の絶望的な心境に共鳴したからでもありましょうか。あるいは生命に對峙する役だったからなのでしょうか。
『手塚治虫の奇妙な世界』を読んで「ロボットは悪いことができないので不完全」というのが『鉄腕アトム』のもうひとつのテーマであることを想い出しました。アトラスという悪い心<オメガ因子>を持った完全なロボットがいたことも。
手塚治虫のテーマに反することによって、『鉄腕アトム』はきっちりとテーマを逆照射するようになっているのですな。また、いろんな意味で作者の思惑を超えてしまった『鉄腕アトム』を制御したいという欲求を手塚さんは持っていたような気もします。<愛人>であるアニメに通ずるところもあるし、案外メタモルフォーゼ的と云えなくもない。
その点で観ても『ブラック・ジャック』というのはどうにも特異な位置を占める作品と云えましょう。
『手塚治虫の奇妙な世界』は成長しないアトムについて一章割きながら、成長とメタモルフォーゼとを結びつけておりません。また、手塚治虫の重要なるモチーフとして二重人格についても一章割きながら、アトラスともブラック・ジャックとも結びつけておりません。
その点、掘り下げが浅いとも云えますが、持ち出す視点がおもしろく、こねくり廻していないぶん好感が持て、これが手塚研究書として最初のものらしいですけど一番優れているように想います。それに引き替え、あたしのやっていることはどうにもよろしくはございませんな。
米沢嘉博さんなんかは「手塚治虫は解釈を誘うようなトリックを作品中に意識的に埋め込んでいる」といったようななかなか穿ったことを云っておりまして、あたしもその罠に掛かっていろいろ云っているだけかも知れませんが、まあ想いついたものはしょうがありません。
『ジキルとハイド』みたいに観たあとただ唖然と言葉を失っているばかりでも面白くはありませんからな。