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『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。
すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。
彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
執筆八年!『戦前の少年犯罪』著者が挑む、21世紀の道徳感情論!
戦時に起こった史上最悪の少年犯罪<浜松九人連続殺人事件>。
解決した名刑事が戦後に犯す<二俣事件>など冤罪の数々。
事件に挑戦する日本初のプロファイラー。
内務省と司法省の暗躍がいま初めて暴かれる!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!

※宮崎哲弥氏が本書について熱く語っています。こちらでお聴きください。



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2005/11/5  思考の塊を投げつけろ!

 いま出ている『ユリイカ 2005年11月号 特集・文化系女子カタログ』に、未映子のなんとも摩訶不思議な文章が掲載されている。
 「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」って、そりゃまたあんたえらいこっちゃな。すっごいなこっれ、なんじゃいな。

 ユリイカなんちゅうのは、あたしのなかで無いことになってる雑誌なんだが、この破天荒な狂い咲き文章を載せてしまったことだけですべてを赦そう。
 「音楽系?」なんてくくりにいれてるのは明らかになにも想い付かなかった編集の苦し紛れで、ほんとはこれこそ「詩と批評」と銘打ってユリイカ巻頭に据えるべきはずの代物なんだが、まあいい。さらに云うと、全編これ未映子の文章だけでもいいはずなんだが、文化系女子なんて範疇にはおさまるもんでもないし、ユリイカにはもったいなすぎるから、まあいい。
 さても、この特集全体はいやに古くさいな。どんなけ古いって、おやじ雑誌としても10年くらい古いのではないか。ヲタク系も学問系も表紙も、一昔前のおやじ雑誌のパロディーを読まされているような気がしてくるし、虐げられたワタシみたいなのばかりで10年どころか百年一日であいかわらずもこういうことになってんのか。

 なんだか、ひからびたカタログの解説文ばかりのなかで、唯一、賞味対象の天然モノがまぎれこんで、かろうじてカタログの面目を保っている。状況がいかに疲弊しようが、ひとつの才能が顕れればただそれだけでどんより重い海原が忽然と割れて地平が開闢するという歴史の円環を見事に示しておる。
 ウェブ上を見て廻っても、ほかの枯れた判りやすい文章にはいろいろ云ってる人がいるけど、この未映子のやつだけはみなさん見事にスルーしてるな。これほどの言葉と思考のうねりを噛み砕き消化するほどの牙を持った読み手はいまだ地上にはおるまい。
 つまりこれは先行するものへの注釈雑誌、常に数歩遅れることが使命のはずのユリイカが、図らずも時代の最先端に立ってしまったということですよ。ひょっとすると創刊以来初、かどうかはよく識らんが。
 想うに、雑誌なんてものがなにゆえか時間を均等に区切って定期的に刊行され、はたまたなにゆえかいろんな人に空間を均等に割り振って数多くの記事を載せるのは、まさしくこういう時代の転換点を断面として一冊に封じ込めて提示するためにあるのだった。ひさびさに雑誌の存在理由を見せつけられてしまった。あれだけ旧時代の遺物をこれでもかと並べたなかに先端を脈絡なく配置するとはなかなか心憎い。
 ユリイカは未映子の産み落とすものに注釈を付けていくだけで、これから10年はやっていけるだろう。まったく、そらええわ。ええネタを見つけはったわ。大いに誉めそやしておくわ。
 諸氏も立ち読みでもしてみて、歴史の大いなる結節点に立ち会ってみられるように。

 未映子自身はこの文章を「絶叫詩」「散文詩」と呼んでいるのだけど、これを「詩」と云い切ってしまってはおもしろくないな。なんちゅうか、思考がそのまま形象を爲して投げつけた塊と云おうか。カタログ注釈雑誌のユリイカではなく、ポーのほうの『ユリイカ』と同じ範疇の「詩と批評」ではある。
 人の脳内に入り込むような空想物語では、超能力か未来的先端技術が必要とされるけど、じつは言葉というものがなによりもすごい超能力であって、電子機械などおよびもつかない最先端のハイテクであって、言葉のみで脳内宇宙をそのままぶつけることが出来るということを証明してしまっている。それも、意識の流れと云った線状のものではなく、立体的な塊として思考が切り頒けられることなしに一気にぶつけられる。さらにそれがそんじょそこらのあたりまえの脳味噌ではないから、ほとんど異星人接触テーマさえ内在されておる。詩などというレベルのもんではない。
 吾妻ひでおで、訳の判らん脳内妄想を塊にして投げつけるようなのがあった気がするけど、それを現実にやってしまっている。
 もっとも、詩というものはもともとそういうもんなんではあるが。現代に於いて言葉がいかに本来の姿を見失われて、すでに出来上がってひからびた意味だけを伝える道具に堕してしまっているかということか。

 そう云えば、7日に未映子ライブがあるけど、未映子のライブも歌というより思考と感覚の塊を形象爲して投げつけられたような妙に具体的な物質感がある。未映子の頭の中をジオラマにして直接その空間に放り込まれるような。
 『頭の中と世界の結婚』とはよくぞ云ったもんだ。
 未映子サイトにアップされているライブ映像を観て、そのごくごく一端を感じてみられては。まあ、映像では限界がありすぎるけど。
 あらためて言葉ってゆうのはすんごいな。往くとして可ならざるは無しの魔法だな。


2005/8/18  ウェブの夜明けは近い

 『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』が図書館にあったので読んでみた。
 なんだか、レイアウトも文章もえらい読みづらいな。内容的にもよう判らん。
 ブログ騒動の前にウェブログについて識っていた人2千人というのはどういう意味なんだろうか。ホットワイヤードなんかの一連のブログ関係記事を読んでた人だけでももっといると想うが、ただ読んでただけで本質は掴んでなかったということなのか、だいたいブログとは何であるのか、定義なんかないと云ってるのかあると云ってるのかさえ判らない。
 ほかの章も回りくどい文章で妙なところで説明が切られるのであたしにはさっぱり読み取れない。
 e-zineとかゆうのもよう判らん。紙の雑誌から移ってきたり模したりしたサイトがウェブ初期にあっということを1行だけ記すのは歴史的に意味があるのかもしれんが、どうもそれ以上の意義があったと云ってるらしい。それがなんであるのかこの書ではあたしは読み取れんし、当時を想い返してもあったような気はしない。
 あのころはやたらと詰まらん横文字を使う田舍臭いサイトがいっぱいあったなと考えながら、リストを見ると見事に詰まらん横文字タイトルのサイトがずらりと並んでいて、やっぱりそうだったか、そう云えば当時すでに雑誌なんてもんは死んでたなあなどとぼんやり想うくらいのもんだ。
 この書についてウェブ上を見て回ると、べつにツッコミを入れるわけでもなく、せいぜいあのサイトが取り上げられてないとかそんなことで、妙に賞贊の言葉が並んでいて、いやに気色悪いな。

 まあ、これまでの歴史はウェブはまだはじまっていない前史で、サイトとしては絶望書店くらいしか見るものがなかったことを再認識するにはいいのかもしれん。
 絶望書店以外に語るべき意義があったのは1ch.tvだけで、あたしがこの書を手に取ったのもひょっとすると言及があるかもと想ったからなんだが、通り一遍の説明があるだけだった。
 あれこそ究極の個人サイトとも云うべき存在で、この書でまっさきに取り上げるべきもんだと想うのだが。まあ、こんな書ではともかく、誰かふさわしい人がきっちり取材して記録を残しておいてもらいたい。あたしには未だに謎が多過ぎる。
 西さんをたぶらかしてアスキーバブル経営の象徴・航空事業をぶち上げた石村氏が、提携企業社長として1ch.tv立ち上げの記者会見席に並んで登場し、いや〜これは役者がそろってますます盛り上がるなあと想ってたら、石村氏と西さんの因縁に触れる者がただの1人もおらず、元アスキーと称する輩が多数出没していた1chスレにはこんなアスキーの基本さえ判ってる者がいないのかと唖然としたもんだが、1chの不幸はウォッチャーに恵まれずにただドタバタ騒動を悦んでいただけで、本質的な解読がまったくなされなかったことだ。
 これからいよいよウェブの歴史がほんとうにはじまろうとしているいま、ウェブのすべてが詰まっていたと云っていい1ch.tvを読み解いておくことは、これからの歴史を拓くうえで貴重なる示唆を得ることができるはずなのだが。

 ちょうどこの書を読み始めたときにWikiについてお勉強していて、こちらのページに辿り着いて、あのブログ騒動の連中が「嫌だったのは、露骨に「徒党を組む」感覚が閉鎖的だったところ」というのを見てびっくりしました。
 どう見ても、連中は少数でちまちまやってただけで、叩いてたほうが村社会を守るために徒党を組んでたんでしょうが。はたまた、協会なんていうどうでもいいところに反応するというのは、あたしが<鏡>と云ったのはやはり正解だったのか。
 いや、連中はブログを盛り上げてなんとか儲けようと無い頭を絞って協会なんかをでっちあげただけで全体を仕切る気なんかなかったことは組織の態をなしていなかったことでも判るから、鏡でもないか。反対に「もっとちゃんと徒党を組め」とかいう批判ならまだしも判るんだが。
 2002/11/14 それでしっぽを廻してるつもりか?!は<釣り>だと受け取った方もいたようですが、とんでもないことでして、叩いてる連中の露骨に「徒党を組む」感覚が閉鎖的だったところがあまりに気色悪かったので生理的嫌惡感を想わず示したもので、絶望書店日記にしては珍しくナマの感情が垣間見えてます。

 さて、過去はこのへんにして未来のことも記しておきますが、少年犯罪データベースはてなをやってみて、ブログでこれだけのデータを提示するのはやはりかなり無理があるなと痛感しました。
 さらに少年犯罪データベースWikiでWiki でもうまくいかないと痛感しました。「ブログはフロー、Wikiはストック」なんてことがほんとなら、もうちょっとなんとかしてほしいところ。もっとも、これはライブドアWikiの性能が低いことや、あたしのWiki能力が低いことも大きいんでしょう。もし、自分ならもっとうまくWikiを操れるという方がいらっしゃいましたら、データを持っていってご自由に構築していただければ幸い。
 あたしのほうは根本的に新しいやり方がなにか必要であると考えます。
 最近では Web 2.0なんてことが取り沙汰されるようですが、抽象的な議論をするより、少年犯罪データベースのデータを的確に提示できる仕組みを工夫したほうがWeb2.0で云われていることはすべて解決できるし早道であると愚考いたします。具体的目標があるほうが思考は楽になるというもの。
 とりあえず、地図上からの事件検索と、その日のニュース記事を持ってきて過去の関連事件の一覧と一緒に表示するとか、そんなところから始めんといかんか。面倒だからどなたかやってくれませんかね。少年犯罪データベースはGoogle八分絶賛継続中ですから、できればグーグル以外のサービスと結びつけていただけると幸い。
 呼びかけてもあんまりやってくれる人もいないから、結局はあたしが無い頭を絞りながらやることになるか。データ完成のほうが優先されるからなかなか手が回らないので困っております。もっとちゃんと徒党を組まんといかんなあ。

 少年犯罪データベース@multiflatなんて試みをされてる方はおります。また、現在のブログが使いにくいと考えていろいろ改良を施そうとされている方はいるみたいで、来年くらいにはウェブの真の歴史がはじまるでしょう。その頃には少年犯罪データベースも完成して、器にふさわしい中身も臨戦態勢になってるでしょうし。
 たんなる提示の仕方だけではなく、少年犯罪データベースをいかに多くの人に届けるかという仕組みづくりも、じつはネットジャーナリズムシステム構築の早道ではないかと愚考しております。具体的目標があるほうが思考は楽になるというもの。

 そう云えば、未映子があの伝説の音楽評論家・市川哲史とポッドキャスティングなんかやってるけど、なんと肝腎の音楽がまったくない。
 まあ、日本のメジャーレコード会社としてはこれがいまのところの限界か。しかし、状況は早晩変わらざる得ないでしょう。
 もろもろ考え合わせてみると、ウェブの夜明けは近いですよ。


2005/7/21  萌えキャラ第一号?

 萌えキャラの系譜は少なくとも手塚治虫のあやめミッチィまでは遡れるであろう。伝え聞くところによると、当時の読者は正しく萌えていたらしい。
 しかし、彼女らの如きたんなる萌えるキャラとは次元が違ってしまって、超正常刺激が肥大化した現代のジャンルとして確立しているいわゆる<萌えキャラ>に直結するのは80年代以降、82年の『ミンキーモモ』あたりからというのが大方の一致した見解ではなかろうか。
 あたしもまあそんなところだろうと考えていたのだが、74年の玉乗りメリーちゃんを昨日発見してちょっと驚いた。この時代にここまで完成度が高いと云おうか、畸形化が完了してしまった萌えキャラがいたとは!
 80年代、いや、現代の萌えキャラと並べても遜色がないこの萌えっぷり。いったい、なんなんだこれは!
Merry なんせ、羽が生へてるだけではなくて傘まで持ってる。ここまでの組み合わせは、最先端の萌え界でもそうはあるまい。進化がまだ始まってもいない時代に、突出してサーベルタイガーの牙をすでにして装備してしまっている。

 傘は曲芸師だから持っているのだろうが、まさしく超正常刺激の徴の如き翠の二重丸を刻印したこの羽はどこから来たのであろうか。
 アゲハが出てくる『ミクロイドS』が73年、蝶々の女の子(シロチョンだっけ?)が出てくる『星の子チョビン』が74年の4月開始だけど、両者とも現在に直結する<萌えキャラ>ではなかった。『みなしごハッチ』なんかもまたしかり。
 ひょっとすると、昔の曲芸少女は傘だけではなく羽も生やしていたのだろうか。
 ともかく、羽だけでもなく、傘だけでもなく、羽と傘のこのアルス・コンビナトリア!おまけに訳の判らん玉の上での想い掛けない邂逅!水色の髪!

 この本は「NHK婦人百科」(いまの番組名は「おしゃれ工房」)のテキストで、つまりはテレビで作り方を放映していたわけであって、恐るべしNHK!!!!現在の<萌えキャラ>第一号の登場はNHKだったと云うのかっ!?それが歴史の回答なのかっ!?
 テキストの予定表によると、動く人形の放送は8/21。再放送が8/22(高校野球によって変更になった可能性はある)。夏休みの子供向け企画なので、宿題の工作として実際に作った記憶のある当時の小学生もいるのではあるまいか。
 眞に恐るべきなのは、エキグチ・クニオというこういう系統にはあんまり関係のなさそうな人形作家に、この年代にこんな萌え萌え人形を作らせてしまう、にっぽんのヲタク文化の根深さ奧深さであります。
 我等民族のDNAには脈々と・・・・。

 この人の「NHK婦人百科」の人形作品集にはメリーちゃんが載っていない代わりにと云おうか、中井英夫が推薦文を書いてて、「『人形たちの夜』という私の連作長編は、氏の援けなしには出来なかった」とかある。
 つーか、男どうし一緒に暮らしていたのか。
 この関係は『炎の女』という岩下志麻・主演でテレビドラマになったそうな。下条アトムがエキグチ・クニオ役をやったとか。テレビドラマデータベースでは出てこないな。なにゆえ女が主役なのか。
 謎が謎を呼ぶ、玉乗りメリーちゃんではあった。

 


2005/5/4  感情を持たぬメディア

 ホリエモンの「新聞・テレビを殺します」インタビューは、「メディアはメッセージ」ということを云い切っていてこれはなかなかすごい。
 メディアというのは中身とまったく関係なく、メディアであることのみが唯一の価値であると、こうまで断言できる人間はそうはいない。まともな頭を持っていると、ついつい中身にもこだわってしまうもんだ。これだけ何度もひつこく問われて微塵も揺るがず、頑として中身に頓着しないメディア観を持っている者はほかにいないだろう。
 中身のほうをこさえる者にとって、こういうメディアは理想的である。

 とくにアクセス数だけで判断して、それによって報酬を払うというシステムは最高のものだが、こういうやりかたに反発するジャーナリストとか自称する輩がいるというのが、どうにも合点がいかぬ。
 ジャーナリストとはある情報をできるだけ多くの人々に伝えるその増幅機能を有する者の謂いであるはずだ。多くの人々に伝えることができぬのなら、それはジャーナリストとしての能力がなく転職すべきというだけのことだ。
 自分自身の体験だとか、あるいは創作物など、己の中のものを伝えるのなら受け手を選ぶことにも一定の意味があるのだが、よそから情報を掘り起こしてきて広めるジャーナリストに増幅機能以外のどんな役割があるというのであろうか。学者なら問題を分析するだけで一応の役割を果たしたことになるが、ジャーナリズムは受け手に伝わって初めて完結するものである。

 昭和のほぼすべての日付の新聞に目を通してみて、改めて新聞というのは素人が流言飛語を書き殴るだけの便所の落書きであることを再認識したが、これら既存の素人記者にとっては、編集長なりの特定の誰かに選んでもらうことによって己の責任を回避し、そのうえで自分の技量とはなんの関係もなく会社のよく判らん権威によって増幅してもらうというのは確かに不可欠なんであろう。己自身には調査能力も増幅能力もない素人であることを重々自覚しているのであるから。
 しかし、ウェブ上の書き手も同じようにこのやりかたに反発を覚える者が多いのは情けない限りである。
 ほんとうは、新聞やテレビの素人記者の時代から、これからはウェブのプロの時代であると云いたいところではあるのだが、ウェブ上にもプロはそんなにいるわけではない。もともと、ウェブ上にもそれほど数多くいると想っていたわけではないのだが、いろいろ活動してみて想像以上に少ないことに気付いてきた。
 判りやすい例なのでまた出すが幼女レイプ被害者統計などは、作業的にめんどくさいので誰かが掘り出してくるのをずっと待っていたのだが、何年経っても誰もやらないからしょうがなくあたしがやるはめになったもので、ロリ犯罪談義をこねくり回す者がこれだけ数多くいて、もっとも基本的なデータを元にするというプロというのも恥ずかしいような初歩の手順を踏むことを想い付く輩が、既存のメディアだけではなくウェブにもひとりもいない状況ではある。
 しかし、それでも既存のメディアよりはウェブのほうがいくぶんかはプロが多いし、チェック体制も既存のメディアよりはウェブのほうがいくぶんかましではあるし、相対的にはこれからプロの時代になると云ってよいであろう。

 金融、メディア、ネットのコングロマリットというのも大変結構なもので、金は金融で稼いで、ジャーナリズムはたんに金融商売への人寄せと箔付けだけの役割でそれ自体では稼がないというのは、つまり販売や広告とは違う純粋な読者数や評判に連動するビジネスモデルとなるわけで、あたしなんかには理想のものと映る。
 たとえば少年犯罪データベースは、決まった常連が毎日訪れるようなサイトとは違ってリピーターが1割程度であることを勘案するとかなりの訪問者数があるのだが、アマゾンのアソシエイト売上げは限りなくゼロに近い。
 まあ、サイトの性格からあんまり売れないだろうとは踏んでいたが、ここまで壊滅的だとは予測していなかった。もともとあれは、国会図書館への交通費とコピー代がかさむようになってきたのでその分だけでも取り戻せればという、じつにつつましやかな考えから貼り附けたものなんだが、こんな涙がこぼれるようなささやかなる望みさえ満たすどころではない。
 Google AdSenseは審査に落とされてしまった。もっとも、審査に通ってもあのサイトの性格に合う的確な広告などなく、実入りはなかったであろう。いま付いている広告はただで場所を借りているXreaのもので、クリックしてもkangaeru2001氏には1円も入らない。
 アフィリエイトやら広告やらのあやふやなビジネスモデルだけではウェブは立ち行かないと想う。少年犯罪データベースのように向かない中身が少なからず存在する。
 はたまた、広告というのはなにゆえか中身にまで口を出してくるようになるものだし。メディア循環は既存のメディアだけではなく、電通をも葬り去らなければとうてい成立しない。 純粋な読者数や評判に連動した対価を得るにはホリエモンモデルしかあるまい。一連の騒動で注目していたのは、ライブドアは既存のメディアだけではなく、電通とも対立関係を貫こうとしていることだった。

 アクセス数だけで判断して、それに応じた面積で新聞をつくるというのは、2005/1/2 発信者より受け手のほうがウェブ的と改めてで記した
「人々の意識の分布が判るようなひとつの議論に対するブログの鳥瞰的な相関図、あるいは個々のブログなんかは関係なくそれぞれの読者数を元にしたウェブでの意識分布が色の違いで一目で判る分子運動図」
「それも時々刻々とリアルタイムで色の分布が変転していくもの」
「ハリ・セルダンの心理歴史学の基礎データみたいなもの」
というのに極めて近い、とりあえず現在でも出来る現実的な回答となる。
 ほんとに全体の意識を反映するには、ライブドアがやってるパブリック・ジャーナリストみたいな登録制ではなくすべてのブログやサイトを反映させる必要があり、またそのためにはウェブ全体を吸い上げるための仕組みか、あるいはウェブ全体を支配する必要がある。ホリエモンがリーチのみにこだわったのはじつに正しい。
 人気投票のような仕組みだと「仙台ジェンキンス」みたいなネタがトップに来てしまうといった心配をする人がいるのだけど、ほんとうに大多数の人々が選び取ったのであれば、それはネタであろうと立派な世論で、横山ノックに投票したかなりの割合の大阪府民は洒落でやってたに違いないが、選ばれたノックは正真正銘の知事であって偽物だったわけではない。

 こういう仕組みが世の中を動かして行くであろう将来を考えれば、ライブドアなんかのライバルはテレビ局ではなくグーグルになることは「EPIC 2014」みたいなちゃちいシナリオを観るまでもなく判る。対抗するにはウェブのほとんどを支配範囲にすることが必要なため人寄せにテレビなんかを利用しようとしただけのことで。
 あちこちでメディア論が盛んではあるが、グーグルにどう対抗するかが焦眉の主題になっていないことは驚くべきことではある。
 現在、少年犯罪データベースがグーグル八分に遭っているので、グーグルの怖さをほとほと痛感している。
 いや、少年犯罪データベースだけではなく、Xrea全体が1ヶ月以上もGoogle八分に遭っていて、原因が皆目判らず、しかもまったく話題にさえなっていないことが不気味でしようがない。グーグルにとっても損になるはずなのに、市場原理が働いていない。何が起こっているのか探索し明らかにしようとするジャーナリズム原理も働いていない。
 グーグルに対抗できる中身に口出ししないメディアならあたしはどこでも支援する。ほかではインチキ商売をしていようが、犯罪を犯していようが、口出ししない文字通りの流すだけのメディアを維持して、しかも人と金をウェブに注いでくれるのなら、これ以上のことはない。
 既存メディアの輩が反発するのは判るが、ウェブの住人がこういう相手に反対する理由がよく判らん。実際にやることが変わってくればまた別だが、いまのところホリエモンの云ってることは正しいようにあたしは想う。
 絶望書店日記で繰り返し述べてきた書き手が使いこなす無色透明なメディアとして、実際にやるのがホリエモンでも誰でもいいが、方向としてこっちのほうに行ってもらいたいと願っている。
 メディアの支配者が、ほんとうに金だけが目的なら、あたしは安心して信頼できる。感情を持ったメディアは危険だ。


2005/3/22  虚業の矜持

 ライブドアの傘下に入った場合は、スポンサーが降りて、フジサンケイグループとの関係も絶たれて経営が立ち行かなくなるとニッポン放送自身が発表しているわけですが、これはつまり、自分たちのやってる番組そのものに商品価値なんてもんはこれっぽっちもなくて、ただ古くからのお友達関係のお情けでお金を恵んでもらってやっているに過ぎませんと公的に認めたということなんですが、そこんとこを誰もつっこまないのは、すでにラジオなんてのはそういうもんだろうと皆さんが考えているということなんでしょうか。
 産経新聞がホリエモンに説教するなんてこともありましたが、毎年何十億も赤字を垂れ流しながら親会社に養ってもらってる本来存在できるはずのない方々が、いかにインチキ商売とは云え自分たちで自立してお金を稼いでいるライブドアに偉そうなことを云うのはいかにもおかしな話だと想います。
 そもそも、ライブドアを非難する人々があれは<虚業>に過ぎないと云ってるのがどうにも違和感があるのですが、放送だとか出版だとかジャーナリズムだとかコンテンツだとかウェブだとか、これは全部<虚業>ではないのか?
 そんなことを考えながら鹿内信隆の本を読んでたら、この人が産経新聞の社長に就任した昭和43年に「新聞社というものは虚業の最たるものだ」と発言していて、笑ってしまいました。
 当時も産経新聞は気の遠くなるような赤字を垂れ流していて、それまでグループで稼いでこの赤字を埋める側だった鹿内としてはこう云いたくなるのも判ります。しかし、じつはこの頃は産経新聞の輝やける赤歴史のなかでも比較的マシだったのであって、このあと石油ショックでいよいよえらいことになって社員の半数の首を切るという滅茶苦茶なリストラを断行する。最近では右路線の好調で多少楽になったとは云え案外部数は延びておらず、苦しさは鹿内が虚業と云った頃とたぶん変わらん。ただ、グループ全体が当時より巨大になったので多少の赤は養えるようになっているのですが、これとてテレビがコケればどうしようもなくなる。そして、テレビはもうもたないでしょう。
 すべては蜃気楼の上にあります。
 
 鹿内一族というか初代の鹿内信隆のいかがわしさえげつなさはホリエモンの何百倍の威力で、ムチャクチャおもろいので皆さんもうちっと研究されてみることをお奨めします。
 ウェブ上では本所次郎『閨閥 マスコミを支配しようとした男』が話題となってますが、これは「文藝春秋」などのいくつかの記事を無断でそのままコピペしただけのしろものですから、元の記事を読んだほうがいいです。中心となった記事は佐野眞一『あぶく銭師たちよ! 昭和虚人伝』に納められていますので読み比べてみたらいいですが、『閨閥』はほんとにそのまんま。あわてて絶版にしたのもむべなるかな。それでいて最後に「本作はフィクションであり、実在の個人・団体などとは一切関係ありません」とか断り書きがあっておかしいのですが、これはこれでメタ小説としてなかなか興味深い。<虚業>とはなにかを探る上での彩りにもなって、ヤフオクで値が上がっているのもゆえなしとはしません。
 
 さて、世間では鹿内信隆が創業者として紹介されることが多いですが、実際にはニッポン放送やフジテレビというのは植村甲午郎や水野成夫などの財界の大物が日経連をバックに創業したもので、鹿内は彼らに雇われた番頭に過ぎません。それが創業者が死んだ後に抜打ちで株を買い占めて創業者一族を追い出してグループ全体を乗っ取ってしまう。世話になった相手を騙しながら乗っ取るのですからえげつなさはホリエモンどころではない。
 さらには公共の電波をなんの経験も能力もない息子に継がせて(結果的に成功したので能力はあったのでしょうが、その時点ではなんの能力も示しておらず、信隆も春雄には能力がないと考えていた)、これがまたライブドア的な軽い文化祭のりだけでなぜか成功するが、女帝のいかがわしい宗教によって息子の病気は手遅れとなって若死にし、またこの宗教が元となった女帝の怒りからクーデターが起こって婿養子ともども鹿内一族は放逐される。
 果ては幻の王権復興のために小学校にも行かせず庭にも出さずに彫刻の森美術館に何年も幽閉されている、鉄仮面や謎のカスパール・ハウザーもかくやという幼き総領孫までいます。※宗教や幽閉については三代目・宏明の嫁さん(信隆の末娘)が書いた「文藝春秋」1993年4月号の記事参照。
 なんとも、ライブドアはオウムに似ているとか云ってる場合ではありませんぞ。
 
 最大の問題は一介のサラリーマンに過ぎない鹿内がどうやって莫大な株購入資金を個人で得たかというところにありますが、これについては開局当時の総務局長という人が実名を出しながら「ニッポン放送の運転資金を流用していたフシがある」という驚くべき証言をしています。ほかに財界筋のなにか不正があったという証言もあります。※「文藝春秋」では「フシがある」なのに『あぶく銭師たちよ! 』では「流用していたとしか考えられない」と書き換えられています。
 ここで上記の「新聞社は虚業の最たるもの」発言ですが、これは田中角栄に云った言葉です。池田勇人政権の財界四天王と呼ばれた創業者の水野成夫が、成り上がり者で自分にたてつく田中角栄を嫌って、莫大な金を注いでスキャンダルを暴き、産経新聞の経営とともに資料を鹿内信隆に託したのですが、鹿内はこれを持って何故かのこのこ田中に逢いにゆき、田中の人間性に打たれて資料を灼いてしまいます。
 さらに、資料を捨てると約束したあとというのがミソなんでしょうが、田中が産経新聞再建のための資金提供を申し出、鹿内はこれをきっぱりと断ります。しかし、断りながらも何故か必要な額を提示します。この文脈で出てきたのが上記の言葉で「新聞社というものは虚業の最たるものだ。かりに百億や二百億のカネでもすぐ消える」というわけです。※鹿内信隆『指導者・カリスマの秘密』で本人が書いてます。
 資料とバーターに田中経由で資金が出てきたと考えたほうが自然ではないかとあたしは考えます。いくら当時のニッポン放送の景気がよかったとは云え、何十パーセントもの株を押さえるだけの額を流用はできんでしょう。開局から10年以上掛かってこつこつと流用したということなのやもしれませんが。
 田中角栄本人が出すはずはなく、実際の資金の出処と鹿内がはじめた正論路線とのつながりとかいろいろ勘繰りはできます。
 もっとも、このあたりは株取得の時系列を調べて、この年より前だったらすぐに否定される推測です。一応、創業者が弱ってからやったという前提で考えてますが、ニッポン放送には水野の眼が届かないので、もっと早くにやってることかも知れません。
 
 いずれにせよ、サラリーマンには絶対無理な資金がどこからか湧いてきて、5億円の自宅だとか、時間外の相対取引だとかなんてのとは比較にならない巨大な不正を基盤としてフジサンケイグループが成り立っていることだけは間違いないのに、いまに至るまで誰も追及してないというのは、この国にジャーナリズムなんてものが果たして存在しているんでしょうか。
 まだ鹿内信隆がトップに君臨していたときにこれだけの証言を得て活字化しているのに、それ以上なんも掘り下げてない「文藝春秋」や佐野眞一というのはいったいなにもんなんでしょうか。
 ライブドアに対してジャーナリズムとは云々とか偉そうに語ってる輩は恥ずかしくはないのでしょうか。
 
 一方で、ネットジャーナリズムとか云ってる輩やジャーナリスト志望の学生さんなんかが、日枝会長の自宅前インタビューを撮影してきてそのままウェブで流すくらいのことを何故やらないのかも不思議でしようがない。
 それどころか、ここで掲げた資料程度を元にして書いてる人もほとんどいないようですし。
 亀渕社長は数少ない鹿内宏明の側近だったのにクーデターで大将が失脚するとあっさり見捨てて日枝派に寝返り、それ以降、異様なまでに日枝に忠誠を尽くすのはこの経緯があるかららしいとかいろいろ掘り下げ方はあるはずなんですが、表面に流れている情報だけを元にみなさん語っている。
 『閨閥』でひとつ判らんのは、日枝会長はもともと組合の委員長だったのに、組合潰しのプロである鹿内信隆に懐柔されて反対に鹿内秘書になって取り入って出世したということになっていて、これがほんとなら鹿内の不正な株取得に関わっていたということになるんですが、嘘ならなんでわざわざこんなストーリーにしたのか、少なくともなんかの典拠があってコピペしただけだと想うのですが。通常流布されてる話では、組合活動のため干されて、二代目の社長就任とともに編成局長に抜擢されたことになってるけど、これもいろいろ辻褄の合わんことがあって、ここんところを誰か掘り下げてもらいたいもの。
 はたまた、ホリエモンも3/11に『閨閥』を読んで感心したみたいで、つーことはここに掲げた情報なんかも調べてないということでいかにも泥縄。
 まあ、<虚業>というのはきちんと金を得ることと、おもろいかどうかということが重要で、あたしにはいろいろ疑問もあるもののライブドアに関してはみなさん愉しんでいるようだから充分成り立っているのではないでしょうか。
 
 それにしても鹿内信隆の<虚業力>は素晴らしい。流用にせよ角栄スキャンダルにせよ、乗っ取る相手の金をそのまま使って乗っ取ってるんだからLBOどころじゃない。
 産経新聞の再建も、もっとも金の掛かる流通をなくすというウェブ的というか、より<虚業化>を押し進めることによってるし、フリーペーパーを成功させたのもその延長線上にある。はたまた、社員の半分を首切りしたのも、米国の新聞を手本として通信社を活用して、もらってきた発表をそのまま記事にするだけの記者クラブにも人員を張り附けないという理論に裏付けされたもので、取材なんか必要ないというホリエモンの発想と通ずる<虚業>精神がある。
 放送だとか出版だとかジャーナリズムだとかコンテンツだとかウェブだとかを考える者は、鹿内信隆を見習っていかに<虚業化>を押し進めるかということをもう一度考えてみるべきではありますまいか。
 その前に必要なのが、自分たちがやっているのは立派な<虚業>であるという矜持です。
 
 ※本所次郎『閨閥 マスコミを支配しようとした男』入荷しました。

 
 
     



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