黒薔薇本とは何か黒薔薇







1999/12/10

 改めて問う!本とは何ぞ?! 1章


 これから暫く、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズを展開する!!史上最強の書痴と証明された絶望書店主人(経緯は黒い薔薇の刻印のページを三回ほど読み返せば判る)がもったいなくも教えを垂れようというのであるからして、ありがたく押し戴くように!!
 ここで云う<本のド素人>とは、既存の出版社、流通、本屋、コレクター、その他もろもろのことである。ほんとうは順序を踏んで、そのうちあなたの街にもいくかも知れませんというような具合に運ぶつもりであったのだが、昨今のコレクターの跳ね上がりぶりには眼にあまるものがあり、まずここから成敗することとす。いくら生きた本を送り出しても、この連中に端から虐殺されてはなんにもならぬ。

 ここで云うコレクターとはSFやミステリー系の掲示板で、どこやらから聞き齧ってきた半端な知識を賢しらにひけらかし、たかだか釣り堀での漁をさも大冒険の如く獲物の名とともに恥ずかしげもなく掲げ、あたかもひとかどの書痴であるかのように誇っておる莫迦者どものことである。さても、この連中の黄金を土塊に換える手つきの鮮やかなることよ!
 我とて同じ本を何冊も買い求める者がいることくらいは昔から識ってはいたが、本好きのなかでも極めて少数の莫迦が自涜に恥じ入りながら耽っているものとこれまで信じてきた。しかし、この手の掲示板では恥じるどころかダブリを自慢する輩があふれておる!商売で本を集めている絶望書店でさえダブリは手を出さぬというに!
 人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ!!!一冊の本を求めるとは命懸けの恋である!!!何故、ダブリの介在する余地があるか!!!
 ましてや、さして興味もないが珍しいと聞いているのでとりあえず押さえたなどとほざく輩までいる始末だ!恋どころか、ただ片端から征服し陵辱し燔き尽くすことのみに快楽を覚えているだけのことなのだ!
 こんな輩も溜め込むばかりではなく、幾ばくかの書を読んではおるのであろう。だが、一覧表を順につぶしてしていくような作業が果たして読書と呼べるであろう哉?いや、コレクションとさえ呼べまい!!
 この連中は本をコマにして五目並べをしておるのだ!電網の発達で通信対戦が可能となり、莫迦者が増殖するようになってしまったのだ!莫迦同士の対戦に勝つことがあたかも書痴への道であるかの錯覚を起こし、莫迦の莫迦な高慢と本の大虐殺を招いてしまったのだ!
 <本のド素人>どもめが!!!キサマなんかにコマにされた本の気持ちが判るか!!!
 本の畜生道へと堕ちたる輩よ!諸氏らはただ人から渡されしリストの確認作業をしておるに過ぎぬ!それも、己が確認したことを確認するためだけの確認である!そこにはなにほどの発見とてなく、而して一閃の感応の奔ることもあり得ぬ!データを手に相手を品定めしているだけのことで、恋など生まれようもない!!!
 絶望書店主人は本に番号をつける者に対し、まんがをコミックなどと呼ぶ者と並び最大限の侮蔑を投げかけるようにしてこれまで生きてきた。ところがこれらの輩はそれでは足らぬと、本を番号そのものへと貶めているのだ!!
 諸氏らの魔法の手は掴んだ黄金をことごとく土塊に換えてくれる!そんな本のミイラを味わい旨いだの不味いだのと賢しらな感想文を綴っておるくらいなら、ラジオ体操にでも行ってオィッチニ、サンシと好きなだけ番号を唱えておれ!形がないと頼りない諸氏には表をハンコで一杯にしてもらえるぞ!釣り堀の如く会場はいくつもあるから、諸氏らの矮小卑劣なる征服欲も存分に満たしてくれることであろう!本である必然などなにもない!疾く、本など捨てよ!!!

 もっとも、こんなことを云ったとて、莫迦者どもの腐った性根が治るわけもない。想えば生涯、土塊しか口にできず、それを御馳走だと喜んでいる哀れな存在ではある。要は分をわきまえてさえいれば、それでよいのだ。ゴキブリは隅でこそこそやっている分には、さしたる害はない。
 真に甘美なる官能に酔いしれることのできる、本との恋に生きる諸氏よ!諸氏らはこんな輩に表通りを歩ませぬよう、つねに最大限の侮蔑を投げかけなくてはならぬ。愛しい者が辱めを受けているを、決して見過ごしてはならぬ。
 侮蔑が足りない!もっと侮蔑を!もっと侮蔑を!こんな輩に対するに片時も軽蔑を忘れてはだめだ!
 本とは何かもう一度考えてみよ!真の本好きの使命が自ずと判るはずである!そのためにもこの項は次回につづく!!

絶望書店主人    





2000/2/14

改めて問う!本とは何ぞ?! 2章

  さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第二弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 「本とコンピュータ」とかいう雑誌の99年春号に絶望書店がちょこっとだけ載った。取材を受けたわけでもないのに、ご丁寧にも一冊献納してきた。絶望書店は先に料金をふんだくっておるにも関わらず「本をお送りいただいてありがとうございます」などとお礼のメールを寄越す諸氏が結構いて、いいのかこれでと首を傾げながらも感心しておったので、ただで呉れるものには返礼をしたほうがよいかと以下の如きメールを出した。(そう云えば「ジャストモアイ」と「彷書月刊」にはメールもしていないので、この場でお礼を述べる。願わくば、紀田順一郎様に於かれましては黒薔薇の刻印のページを三回は読み返し賜らんことを。絶望を語るのはそれから、世界の果てとは何であるかを会得してからのことでありましょう。神田などという出涸らしだけの釣り堀で充足しているようでは、真の書物には到底辿り着けませぬ。そのほうが一生さいわいでもありましょうが)
 さてさて、メール。長いのでだいぶ切った。

「このたびは貴誌をお送りいただきありがとうございます。遅ればせながら、お礼をさせていただきます。
 さて、当方は常々貴誌のあり方には疑問を抱いております。この機会に想う処を述べさせていただきます。
 少なくともバブル以降、日本の出版の中心がコミケと古本屋に移っていることは、本に詳しい人々のあいだでは概ね常識となっているかと存じます。而るに貴誌では再販制度云々、オンデマンド出版が云々と、およそ寝言としか聞こえぬ言葉が頻繁に表れます。また、先に出された「オンライン書店の誘惑」に至っては絶望書店の存在さえお知りにならぬようで、愚考するに本にもコンピューターにもすこぶる疎い方々が携わっておられるのではないでしょうか。
 できますればコミケで二、三年修行を積まれてから出直すことをお奨めいたします。その場で行われている本物の出版、本物の流通、本物の小売り、本物の編集を体験されれば、貴誌で論じられているような出版、流通はママゴトにしか過ぎぬことがご理解いただけるのではないかと存じます。
 新刊書店はもとより、出版社もとうに脳死しております。日本の新聞社は戦後一貫して紙にインクを塗ったものを洗剤のオマケとして売ってまいりましたが、出版社もようようその高みに昇ったということであり、まず可逆性のない流れでありましょう。
 重要なことはこのような本物の経験を積んでいる者がこの国にはすでに数十万人単位で存在しているという事実です。これだけの人々を差し置いて無知なる者が本について論ずるは、滑稽でもあり僭越でもあります。
 子供がママゴトを楽しむのは大いに結構なことですが、本物の大人の世界が存在することを知り、自分のやっていることがママゴトであると自覚することは必要だと存じます。こども銀行が自らを本物の銀行だと思い込むのは、社会にとっても子供自身にとっても有害であることはご理解いただけるかと想います。
 本当は絶望書店が開店した一年前から、出版はさらに次の段階へと移っております。貴誌のあり方はすでに二段階遅れているようなわけです。当店のやっていることが流通ならともかく、なにゆえ出版であるのかは、なかなかご理解いただけないかと存じます。物事にはやはり順序というものがございます。
 もし、本とコンピューターを本当に論じるおつもりがございましたら、段階をせめてひとつは昇られるよう、切にしかあらんことを希う次第であります。」

 これで1300円分くらいのお礼にはなっただろうと安んじていたのだが、その後のミニコミ特集など見ているとどうもまだ根本的に判ってないらしい。オンライン版「本とコンピュータ」とかいうのでも、相変わらず寝惚けた議論を続けておる。
 これからちと噛み砕いておつむの弱い<本のド素人>のために説いていこうと想っている。物の判った諸氏のなかには何をいまさらこんなことと見る向きもあろうが、案外とそうでもないかも知れぬ。
 なんでも角川書店がオンデマンド出版を始めて今月から角川文庫は絶版がなくなるそうだが、こんなものを今頃になって欧州経由でやるというのは「マトリックス」で喜んでいる莫迦さ加減と同じではないか!!つまりは日本の出版情況がきちんと捉えられていない証左である!!コミケ者にも古本者にもどうもほんとは判っておらぬのではないか?
 ミニコミなど世界中にあるが、女子高生がおこずかいで「出版」し、市場で売り買いし、利益まで出してしまうこともあるというこの国で、オンデマンド出版とはいったい何事であるか!?
 本とは何かもう一度とくと考えてみよ!真の本好きの使命が自ずと判るはずである!そのためにもこの項は次回につづく!!

絶望書店主人    





2000/3/5

 改めて問う!本とは何ぞ?! 3章

  さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第三弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 ここらで、ちとおさらい。
 シリーズ1章では読みもしない本を集めている莫迦者を糾弾したのはもちろんであるが、それよりも人から渡されたリストに沿って端から端までただ機械的に読んでいる者に侮蔑を投げかける事へと重点を置いたつもりであった。而るにこれまでの反応を見てみると、全員が本を集める事への攻撃と受け取ったようである。
 なにゆえこんな具合になるのかと駄文を読み返してみれば、なるほど「コレクター」という言葉を使っている。人はこんなラベルに引きずられて、内容を読みとることはないのであろうか。どうも最近、己の文章力に疑念を感じることの多い絶望書店主人ではある。
 とりあえず、リストに沿って読書する者を<無脳読者>、このような行為を<無読>と名付けておく。もっとよさげな名前を誰か付けてもらいたい。どうもますます己の言葉の能力に疑念がつのるばかりではある。
 ダブリの本を買い求める輩には、読みたがっている仲間と融通しあうためという大義名分があるらしい。一冊二冊ならともかく、大量にこんなことができうるのは、この連中が天から降ってきたまったく同じリストを端から端まで潰す作業に精を出しているだけに過ぎぬ証左である!それが読書と云えるのかと問うているのだ!!本をただ集めることではなく、リストの端から端まで読むということが五目並べに過ぎぬと云うておるのだ!!電話帳でも順番に読んでおるほうが、なんぼかマシではないか!!!
 どうも、ちとくどいが、また違ったふうに受け取られても何なので書き添えておくが、「リスト」とはベストテンの類を云うのではない。いままさに書物の大海へと漕ぎ出ださんとす若人が、この手の指針に頼るのは悪いことではない。ベスト100も卒業した、いい歳の本読みが、人から吹き込まれし定番をえんえんと追っかけるしか能がないとは、それまでやってきたことがただの<無読>に過ぎず、これからも<無読>しかできぬということなのだ。魂の込められし一読一読が、そこにはないということなのだ!
 斯様な諸氏においては、ハーレクインを読んでいるような者を嗤うのはやめることだ。彼女たちのほうがよほど純粋なる読書の悦びに生きている。読者としての魂が確かにある!!
 絶望書店がアイドルものなぞにそこそこ力を入れているのは、そこにその一冊に心底恋焦がれ渇く魂が見出だせる故だ!!何ほどの夾雑物をも介入させぬ、本への研ぎ澄まされし想いがあるからだ!!
 ただ定番の確認作業に興ずる輩は、これらの人々にもとうてい敵わぬ<無脳読者>であることを自覚し、本について一人前の口をきくことは慎むように。
「そうよ、ほーん!本をほんとに感じていたら、脳味噌も、心も、勇気も、とおっても簡単に手にできるのよお。ラララー、ルルルー」とドロシーも唱いあげておったぞ、カカシさんにブリキ男さんに弱虫のライオンさん。

 ところで、うちの近所の古本屋には「風は頁をめくるが読むことはできない」なぞという、いかにも深そうでなかなかに浅はかな言葉が麗々しく掲げられておりますが、有名な文句なのでありましょうか。魂なき読書よりは風のほうが、本に吹き込むなにがしかがまだしもそこに。
 次章につづく!!

絶望書店主人    





2000/3/23

 改めて問う!本とは何ぞ?! 4章

   さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第四弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 「本とコンピュータ」などの愚劣さは、新刊書店を本屋だと勘違いしていることに尽きる!
 新刊書店とは本の99.999999999%を排除し、0.000000001%をあつかうことだけを信条とするアンチ本屋である!!オーナインシステムとはよく云ったものネ、ぶざまネと赤木博士が15年後に呆れておったぞ!!
 商売としてはこんな隙間産業があってもいいのであろうが、こともあろうに本のプロのつもりでこの連中が一人前の口をきいたりする。いったい何事であるか!!!
 いやいや商売としてもまことに珍妙なるしろもので、世の中にはまんが専門店やらミステリー専門店やらいろいろ便利な処もあるが、刷られてまだ売れ残っている本だけあつかう専門店とはいったい何者であるか?!!!ほんとに答えられる者がいるのか?!!!
 さらに輪を掛けて、こんな訳の判らん処にのこのこ出掛けていって、本がないなどと嘆く輩までいたりする。この莫迦者はまんが専門店に行ってまんがしか見つからないと怒ったりするのであろう。こうなってくると<本のド素人>などと云う遙か以前の話で、吾妻ひでおのぬとぬとの世界だ!!こちらの脳髄がねじ切れそうになる!!!!!
 アマゾンコムが一目置かれているのは、100%の本をあつかおうという気概がある故だ!このもっとも肝腎なるアマゾンの古書販売システムについてまともなレポートを見たことがないが、結局のところ本について基本から何も判っていない証左である!!日本のネット書店の100万冊などという数字は業にて醜く朽ち果てし山姥の上げ底サンダルだという話もあるが、その愚かしさはもっと根源的な処に存するのである!!100万冊が300万冊になろうが、オーナインシステムである限り本屋に似せた本屋でない何者かに過ぎんのだ!!!立派な本屋であるアマゾンとの勝負は始まる前から既にして決しておる!!!こんな簡単なことも判らぬ<本のド素人>はおとなしく口を噤んでおれ!!!!!

 而して古書店のほうも大して変わりはせんのだから困ったもんではある。
 アマゾンの日本上陸やブックオフのネット進出を想定し、真剣な対策をとっているネット古書店などひとつもないと云ってよい。両雄ともいよいよ秒読みとなってきたが、このままでは絶望書店以外に生き残るネット古書店は五つとないであろう。大半は消滅し、残りはアマゾン、イーベイ、EasySeekの下請けとして細々と命脈を繋ぐこととなる。つまるところ日本においては古書店さえも再販制によってこれまで守られていたということで、なんとも泣けてくる。
 さるにても古書店が大手サイトの下請けとなるのは面妖なる話であって、そんなことをするくらいなら大手の社員にでもなれば株も貰えて億万長者になれるというにわざわざ固辞し、もっとも採算の合わぬ手間ばかりの部門を進んで請け負い、かろうじてひねり出した乏しい利益まで上納するわけで、ネット産業の捨て石にならんとす麗しき自己犠牲精神としか形容のしようがない。まあ、世のため人のため、せいぜい頑張っていただきたいものではある。マルクスで食べられなくなった可哀想な人々に新たなパンを提供できるわけで、やりがいがありますぞ。アマゾンとブックオフと絶望書店さえあれば、取り立てて読書びとが困ることもなかろうし。
 ちなみに愚鈍なる古書店連中とは違って、絶望書店はブックオフを非常に高く評価しておる。半端な知識の賢しらなる選別によって貴重な本を大量に捨て去り、図書館に行けばいつでも読めるどうでもいいような出涸らしだけを並べて文化の担い手などとほざいている輩よりは、素人を自認し選別なしに真偽顛倒玉石混淆訳の判らん本までづらづら並べておるブックオフのほうが、遙かに文化に貢献しておるというもんだ。

 書き手への利益環流システムはどのみち再構築せねばならぬ問題で、古本屋に文句を垂れるは筋違いである!!そもそも、自らの手であがないを勝ち取ることもできぬ書き手や出版社に本を出す資格などあるのか?!!!こんな甘えた連中が関わっているから、たとえ0.000000000000001%でもまともな新刊が出てこぬのではないのか?!!!!!
 コミケでは女子高生さえ、いとも簡単にやっておるぞ!!!(女子高生が利益をあげておるのを実際に何組か目撃し、男子高生については聞いたこともないという、当方の狭い偏った見聞を踏まえた表現で他意はない)
 仮にも媒体を培養せんとしながら、要となる接合回路を他者に依存するとは何事であるのか?!!!!!!大手サイトの下請けとなる古書店と何が違うと云うのか?!!!!!!いや、さらにぶざまなことに、その頼りとする回路が接合拒絶を標準設定とするオーナインシステムなのであるぞ!!!!!
 揃いも揃って、己のやっていることが何であるかほんとに答えられる者がいるのか?!!!云ってみよ!!!!!!本とはいったい何であるかあ!!!!!!!!!!!!!!!!

 ひつこくも次章に続く!!

絶望書店主人    





2000/4/24

 改めて問う!本とは何ぞ?! 5章

   さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第五弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 我は絶望書店を開店するに当たって、「莫迦!死ね!何様のつもりだ!!」というようなメールが週に一本はやってきて、自分がちょっぴり偉くなったような、何様気分が味わえるものと愉しみにしていた。これはかなり本気に愉しみにしていた。
 豈図らんや、二年以上もこんな出鱈目を続けておるというに、ひとつも(ほんとにたったひとつも!!)批判がない。見事にない。金輪際ない。
 ボーゼンとなりながら、ヲノレノヤッテイルコトハナニカバッポンテキニマチガッテイルノデハナイダラウカと段々不安が募ってきた。しょうがないので、匿名で出せるアンケート欄なぞも設けてみたが、それまでもぽつぽつあった賛辞ばかりがどっと押し寄せるという眼も当てられぬ惨状とあいなった。
 もう半泣きになりながらウェブ上を「絶望書店」で検索しまくり、おろおろと悪口を探し廻るという情けない姿を晒すようになったが、どうしても見つからず、代わりにマ・メール・ロワの如き何とも気になる妙な絵のあるサイトや、中学生の異様に冴えたSF評論日記が読める本上力丸のSF長屋なんてのが引っかかってきたりする。
 考えてみれば、いまどきちょっと気の利いた奴が絶望書店のことを知らぬはずもなく、気の利いたサイトを発見するに「絶望書店」はなかなか便利なキーワードではある。これ以上の言葉はどうも想いつかない。あるものならご教示賜りたい。
 もっとも、絶望書店以上に面白いサイトは見つからないが、これはおそらく地上に存在しないのでやむを得ぬのであろう。あるものならご教示賜りたい。

 そんな中、坂本正治とかいう人のサイトが引っかかってきたのが去年の暮れであった。
 電網空間の最前線で血まみれになりながら闘っていると、オヤジ媒体に限らず世間に流布するネット商売論はじつに生ぬるく、とくに本に関してはまともなものはひとつとてないと嘆かわしく想っておったのだが、ここのネット書店レポートはじつに的確で、絶望書店についての評価もこれまで見てきたなかではもっとも本質を突いておる。
 果たして何者であろうかとプロフィールを見ると、大阪万博でも活躍した空間アーティストで、60歳近くになってからいきなりマーケティング研究所の主任研究員になっている。なんじゃこりゃ?
 どうもよく判らんがなんとなく気になっていた今年の二月、「屑籠通信」とかいうメルマガのバックナンバーがアップされた。一読するにSFやらメディアやらアニメやらの話題を毎日綴っていて、またワンフェスやらなにやらとにかくフットワーク軽くあちこち出没しておる。これはどうもかの"裏"日本工業新聞!!に極めて近い。
 アニメを語るに当たってはアニメージュ付録のデータファイルなんぞをきちんと読むだけではなくその編纂者に逢いに行ったりまでしており、いい加減な言説が横行するこのご時世に、じつにやることが手堅い。"裏"日本工業新聞!!はその手のいい加減な連中とは違う非常に立派なサイトだが、年齢だけを考えてもどうもこっちのほうが勝ってるな・・・。
 これはいよいよタダ者ではないと考えはじめて、ようようあの「ニューヨーク武芸帳」(昭51年 中央公論社 絶版)の坂本正治だと想い至った。そうか!なるほど!!
 あらためてプロフィールを読み返すと、ちゃんと書いとるではないか。あたしのやることはじつに手堅くないな。
 なにせ、漸くすべてが判った時には「屑籠通信」は衝撃の最終回を迎えてるし、サイトは不気味な余韻を残して更新が止まってしまった。いくら検索を掛けてみても、その後の状況はまったく掴めない。戦いがますます困難を極めるなか、教えを請うべき人がまたひとり・・・。寒い時代だとは想わんかと、独り落胆していた。
 ところが、最近になってどうもまだ元気らしいということが判った次第である。「屑籠通信」も再開しているらしい。
 いろいろ訊いてみると、なんでも手作業で百部だけ出してるメルマガだということで、なんであたしがこれだけの代物をいままで知らなかったのか疑問であったのだが、それもむべなるかな。また、つながりのある「本とコンピュータ」やダイヤモンド社の本に、これだけの分析がまったく反映されていないのは出版社や編集者がいかにまぬけだとは云え不思議な話ではあるが、なんか世の中そうしたもんらしい。
 ネット書店レポートは南の島図書館の企画広報室に何故かある。ここはどうもページ構成がぐちゃぐちゃだが、探せば「神保町今昔物語」なんて記事もある。
 連絡先はこのぐちゃぐちゃサイト内で見つけるのはおそらく不可能なので、ウェブ上を検索して本人に直接メールを出せば「屑籠通信」を配信してもらえる。それだけの労力をかける価値はあるであろう。いろんな意味で本とは何かを考える一助にはなる。まあ、バックナンバーを読んで判断すればよろしい。
 「武芸帳」が必要なのはまさにいま現在の日本ではありますな。いやいや、ないのが本にまつわる問題のすべてか。

 アンケートのなかに「毒吐きまくりなトコが楽しい。さらなる毒を望みます」なんてのがあったのですが、貶すのが本論の目的ではないので今回は誉めまくりモードのちょっといい話で纏めてみました。
 みなさま、いかがでしたでしょうか。今宵の絶望書店はお娯しみいただけたでしょうか。またまた、ひつこくも続きますわ。

絶望書店主人    





2000/5/28

 改めて問う!本とは何ぞ?! 6章

  さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第六弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 今回は簡単な連絡事項を二、三ばかり。

 その一。
 当店への要望で一番多いのが、本の検索システムや新入荷のマークを付けよというものである。そのようなる諸氏には以下の如きメールを返しておるのであるが、面倒になってきたのでここに掲げておく。

「直線的に目当ての本だけを求めて、そのまま脇目も振らずに去るというのは、せっかくの知識の広がりと人生の無意味なる蕩尽の機会を逸しているわけでして、根源的に読書という行為に反していることかと存じます。もっとも、日本にはインターネット上に限らずそのような広がりを期待できる本屋などひとつとしてなく、やむを得ぬことかとも存じます。さりながら、この絶望書店が開店した二年前からは事態が変わったようなわけでございます。
 ぜひ、とくに興味のない棚もご覧いただけましょうか。想わぬ本との出逢いがあるだけではなく、「本」に抱いておられる概念そのものが変容するようなこともあるやも知れませぬ」

 己のことを一人前の本読みだと想い込んでいる諸氏ほど検索やらマークやらがあってしかるべきと考えているようで、まことに困ったことではある。
 つまるところ、訪れるたびにすべての棚、すべての本を見てもらいたいと、この本屋風情は吹いておるわけだ。ために、すべてのページが有機的に結びつき読み返すたびに違う様相を呈するよう、店を迷宮化せんと日々腐心しておる。検索やマークとは対極の地平を目指しておる。
 ちなみに各棚の更新日を出すこともかなり抵抗していたのだが、収容能力の限界を超え更新ペースがめっきり落ちてしまったためやむなく表示するに至った。さるにても、開店半歳ほどの絶望書店は毎日すべての棚にわけの判らん本がどかどか投下され、開店記念で値段も破格だったし、詰まらぬ理屈もこねていなかった・・・ことはなかったけれど、腑がよじれるほどのあんな面白い本屋は歴史上なかったなと、ちょっと遠い眸。

 その二。
 絶望書店を表す言葉として「本を探すのに絶望した人が頼るべき処」といったものがたまにある。これはまったくもって間違っている。これまた対極と云ってよい。
 絶望書店の絶望とはそも何者であるか、黒薔薇青薔薇などの薔薇の刻印のページを幾度も読み返し、いま一度考えてもらいたい。絶望書店とは絶望を売る本屋である。
 さてもさても、なにゆえこの絶望書店に利便性なんぞを求めるのであろうか。便しか売り物のないアンチ本屋はほかにいくらもあろうに。かようなる諸氏はまだまだ本読みとして半人前、いやいや本とは何であるかが根本から判っていないことを自覚されるように。

 その三。
 オカルトやら風俗資料やらのもっと濃いところを集めろというような要望もある。まあ、アングラぽい相貌からそんな勘違いをすることも判らんではないが、絶望書店はそもそもの原初からそんな方向をまったく向いていない。
 絶望書店はマッピングが済んでいる分野にはまったく興味がない。そのような分野には余処にいくらでも立派な専門店があるので、そちらを当たっていただきたい。ミステリーやらSFからも早いとこ足を洗いたいもんではある。
 本のマップ自体も気に入らんのだが、その機軸となる経緯線網がじつに気に入らん。昨今花盛りに見える本についての言説は、その大半が人の作製せしマップ上の貧相なる冒険譚に過ぎぬが、たまさかある独自のマップ作製も経緯線網が固定しているので、所詮は標本分類の追加に過ぎぬ。絶望書店はマップを破り捨てるだけではなく、経緯線網を歪ませ、あるいはへし折りたいと愚考しておる。できるだけ出鱈目な値付けを心掛けているのもその一環であるし、オカルト、ミステリー、SFなぞのマップの完備された分野もそんな掻き混ぜの観点で出鱈目に並べているつもりである。たとえば「サイコロ占いの秘法」なぞはオカルト本的価値であの値が付いているはずもないし、はたまた表紙絵の値打ちでもなかったりする。マップ上の濃いだの薄いだのの位置取りは、便利な余処の本屋に任せる。
 ところで絶望書店は二周年を機にタイトルから古書店という言葉を取り、書店に革めた。開店時から書店のつもりであったが、混乱を招くためにやむなく古書店を騙っておった。

 おまけ。
 「切にしかあらんことを希う」の「希う」は「こいねがう」と読んでいただきたい。近頃この言葉をつかう機会がないので、なんか出してみました。なんか好きなの。
 次章につづく!!

絶望書店主人    





2000/6/20

 改めて問う!本とは何ぞ?! 7章

  さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第七弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 「ブックオフ問題」とかいうのを辿ってつらつら眺めていると、どうも皆さん基礎的な現状認識に著しく欠けているようでして、してみると「本とは何ぞ」のシリーズだけではなく、そもそも絶望書店のやっていることがまったくお判りいただけないことになりますので、ちと今回は基本的なことを。ほんとはここはこんなことをやる場ではないのですが。

 すでにして本の流通は完璧に崩壊しているのです。
 何がどのように崩壊しているかは「出版社と書店はいかにして消えていくか」(小田光雄 パル出版)で少しは判るでしょう。ちなみに、この書名で検索を掛けると、いろんな人がいろんな立場でいろんなことを云ったり、この本に書いてない情報もあってなかなか面白いですな。意外な顔ぶれもあったりして、勉強している人はちゃんとやっているのね。直接関係ないけど「神様の仕業」なんてのにも辿り着けて、これはなかなかいいキーワードです。
 作家や出版社は驚くほど流通に疎く、この書を読んでいない者の発言は、一見プロっぽくてもすべて出鱈目と考えた方が無難です。本に携わっていてこの書を読んでいない者は、知識も意識も低レベルですので。
 なんでも続編はブックオフ問題だそうで、さらに衝撃的な内容になるとか。前作の論調の延長線上ならどうかとは想いますが、事態はますます動いとるし一応期待しておきましょう。

 而して、こんなものを読む以前に感じ取れていないのならお話になりませんな。欲しい本は新刊書店で確実に入手できるなんて、想像を絶する超能力の持ち主には何が問題なのかはそれは判らんでしょう。渋滞しようが橋が落ちようが、空を飛べたり頭にお花の咲いてる人には関係ないですから。
 そう、すでに「橋は落ちた!!」のです。ですから新刊書店で買ったとしても出版はおろか、本の流通にさえ何の貢献にもなりません。そのお店が好きで支援したいのならそれはそれでいいですが。好きな出版社を支援したいのなら出版社から買うべきですし、好きな作者を支援したいのなら作者から直接買うべきです。ブックオフで半額で買って、残りの半額を作者の口座に振り込むのが現状ではもっともマシな方法のような。状況は来るとこまで来とりますよ。
 気付いてないのが一番の問題なのですが。

 「ベストセラーを排除する戦略」なんてことをとっくにやっていて成功しているらしい新刊書店の三月書房「新刊屋と古本屋 ―その距離感の変遷―」というのを二年前に書いとりますが、「ブックオフ問題」なぞはこの一文ですべて片が付く。なにせ昔は今よりずっと多くの新古本が流布していたというお話なんですからな。なんだか「少年犯罪」と同じく、ブックオフを非難している連中は己の無知蒙昧を晒しているだけのようで。
 この文章はもうひとつの重大な点を指摘していて、石油ショック(出版史の重大なる分岐点)以降、新刊書店と古書店の連携が切れてしまったということ。畢竟、本は大量に捨てられることになったのです。これはもう既存の古書店の無策としか云いようがないが、本の99%は捨てられることになってしまった!!それをブックオフが98%にまで引き下げるという画期的なことをやったわけです。30年前の水準にはまだ達しておりませんが、この一点だけで絶望書店はブックオフを支持する!!
 ブックオフを非難する連中は、つまるところこの暗黒の30年間に時代を引き戻し、またすべての本を捨てろと抜かしておるのだ!!燔やしてしまえとほざいておるのだ!!
 仮にも本に携わっておりながら、本を燃やせと主張する輩は、全員銃殺にしてしまえ!!!!!こんな輩を見過ごしにしておる連中も含めて、すべて本の敵である!!!!!!虐殺者である!!!!!

 この手の莫迦者を黙らせれば「ブックオフ問題」は解決いたしますが、遙かに本質式で厄介な「橋は落ちた!!」問題は依然として残る。だからといって、岬兄悟のように「出版流通がすでに崩壊しているから電子出版」というのも、ちと先走りし過ぎておるような。だいたい、電子本で一番困っているのが流通でしょうに。
 ほんとに取次と手を切る覚悟がおありなら、再販制で人間はどれだけ頭脳が劣化するか人類退化テーマのSFでも書いてみられたらいかがでしょうか。真面目な話、科学で検証するに値するドラッグ以上に驚異なる領域だと愚考しますが。取次や新聞の情報操作によって、当事者も含めて人がどれほど簡単に洗脳されてしまうかも合わせて。
 ひとりの覚醒した書物ハッカーがレジスタンスを始める「マトリックス」的お話なら、電子出版でも売れるかも知れませんぞ。ちなみに絶望書店がやっているのは「ウテナ」のほうですので、お間違えなきように。
 かのブックオフは本にまったく興味さえなく、ただごく常識的な経営を持ち込むだけで、わずか9年で、あれだけの激震を起こしておりますよ。まだまだ、先にやるべきことがある。このままではネット上での書籍販売が主流になったとしても、確実に同じ問題を引きずることになりますぞ。データ化や書評程度のことで何とかなると考えるのは、脳天気に過ぎる!!!!ブックオフの攻勢がなかったらどうなってたかと想うと、あたしなんかは逆にぞっといたします。

 死んだペヨトル工房が「解散日記」を連載しております。「夜想」やら何やらの中身の空っぽな雑誌はまったく興味が湧きませんでしたが、これはもっとも好きだった雑誌「ペケ」の壮絶なる最後を少し想起させたりしてなかなか面白いですな。何事も死に際が締まりも良くなって美味しいということですか。売れ残った何万冊だかの本ではなく、この辞世の言葉でひとりの読者を得たわけで、流通というのはまことに味なものでございます。書いてることは甘い(つぶれるほど売れなかった本を引き取ってくれる人を、足元を見るなどと何故云いますかね。普通はただでもいらんよ)ですが。
 じつはペヨトルは戦後唯一正しい本の流通をやった出版社と見ていますが、ご当人は自分がどんな戦略を採っていたかをまったく理解していないようで。だから喪ってしまったものが何かも判っていない。もっとも、弾があれじゃ戦略が良くてもしょうがないですが。時代に乗っかるというのは恐ろしいことです。まあ、買うべき人間全員に渡ったのだから、充分成功なのですが。

 そして、ほんとの秘鑰は印刷にありと当方は睨んでおりますが、印刷新世紀宣言を読むとこっちはこっちで崩壊しているようで。革命の日はまだまだ遠いですな。

 結局の処、メディアとはすなわち流通のことでありますよ。
 そうそう、ブックオフに一番脅威を感じているのはじつは既存の古書店で、このブックオフは古書文化を破壊するのか。(古本屋さんの喫茶室過去ログ)の甘えた愚痴を読んで、新刊書店と仲良く滅んでいくかわいそうな人々にも哀れみの言葉を捧げてやってください。片やブックオフやら専門古書店やらを束にして近所に開店して欲しいと、ただ吹くだけではなく古書業界に要請している何だか凄い新刊書店もあると云うに。

 どうも開店以来の詰まらん文章を書いてしまいました。この程度の初歩的なリンク集やら分析やらは、本について偉そうな口をきいている方々に済ましておいてもらいたいもんです。絶望書店はもうちっと高邁かつ崇高なることをやらかす処でありますので。
 ところで、ペヨトルのつぶれた理由は「メディア遡及力」が無くなったからなんだそうで、どうも意味はよく判りませんが、絶望書店が面白いのは「メディア遡及力」があるからだというような気がしてきましたので、これから使わせてもらいます。意味が判る方はどなたか教えてください。
 次章につづく!!

 附記・やっと読みました「ブックオフと出版業界」。どう読んでも最初から最後まで絶賛に次ぐ絶賛で、業界唯一のブックオフ絶賛派の絶望書店も仰天!いくらなんでもそこまで偉くはないでしょうが。これは新しいかたちのチョーチン本なのか、はたまた出版業界にショックを与えて再販制を撤廃させるためのホーベンなのか。こんな妙ちきりんな本はひさしぶり。確かに衝撃的。あーびっくりした。


絶望書店主人    





2000/8/14

 改めて問う!本とは何ぞ?! 8章

  さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ第八弾である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 絶望書店がいまもっとも注目している読書系サイトはバブルクンドの神々であるが、今日コミケでここが出したダンセイニの翻訳+研究本を手に入れて、なかなか気分がいい。まだ読んでないので出来は判らぬが、プロではないのだしコピー本300円だし、内容を問う前に存在が嬉しい。
 読む前のこの心の高ぶりこそが本の本質でもある。本はいいねぇ。

 二十年前までは新刊書店でもこんな昂揚感を極々極々極々稀少ではあっても味わえたものだが、出版社がメディア訴求力やら文化支援などという広告用語を恥ずかしげもなく振り回すようになったバブル以降、ただの一度もない。創り手と売り手と読み手の心がひとつになって、邪悪なる夾雑物が横から介在せぬ純粋なる書物の育まれる場はコミケだけになってしまったが、バブル期出版の申し子であるペヨトル工房が相変わらずバブル的呪詛を吐きながらも寿命を終え、出版流通のクラッシュが起これば、たまさかでも心がまたひとつになれる日は来るのであろうか。
 出版クラッシュなどは三月書房のコラムが答えをすべてを云い当てていて、当方はまったく楽観しておる。出版に直接関わっている者は地獄を見ることもあろうが、読者にとってはすこぶる結構なお話だ。
 じつを云うと、当方はいささか違う問題の方が深刻だと考えておる。

 ネットの新刊書店が利益を出す方法はひとつしかないことはちょっと考えれば誰でも判ることだと想っていたのだが、どうも判ってない人々が携わっているようだ。ひょっとすると何かよんどころなき事情があってあんな既存の書店並のポトラッチ合戦をやってるのかも知れんが、いずれにしても、すでに本の販売で利益を出すことを放棄したはずのアマゾン・コムに一掃されることであろう。(その前にブックオフか。ebookoffのサイトの出来はいいですな。ここに限らず古書店サイトには見るべきものがあるのに、なんで日本の新刊書店サイトは皆、頭の悪さが滲み出るのでしょうか。いくらなんでも知能の発育に差があり過ぎ。)

 アマゾン・コムが日本の新刊販売の中心になるのは本の世界全体にとっても大いに結構なことではあるが、このままでは読書系サイトの中心ともなってしまう。これはいささか面白くない。日本の読書系のネット者はいままで何をやっていたのかという話になる。
 少しだけ探りを入れてみた限りでは、皆さんこの点にはあまり危機感を抱いておられぬようだ。アマゾンに対抗できうるだけの読書系サイトの<ファウンデーション>を建設することは、口先だけで大したことはやっていない年寄りファンダムの連中を黙らせることにもなるし、どの本をいくらで買ったなどというチンケな人間性を競うだけのさもしい争いとは比べものにならぬ、胸躍る歴史的プロジェクトのはずであろうに!!
 これほどのビッグゲームに參加する機会は、諸氏らの生涯に於いて二度とふたたび巡ってくることはない!!なにゆえ背を向けるか?!!!!!

 絶望書店などという外道は、確固たる中心がないとうまく機能せぬ。三年間も待ったあげくが、結局アマゾンが中心というのではどうにも情けない。読書びとにとっては出版クラッシュなどより重大事のはずだ。もう、時間がない。
 出でませい!!!三万年続く暗黒時代を千年に短縮するため、深き眠りより眼醒め、地を破り天へと屹立し、本の銀河系を睥睨せよ!!!!!!アマゾンが中心ではとうてい切り抜けられぬ事態もある!!!!!!!

 まだ、続く!!!

絶望書店主人    





2000/10/2

 改めて問う!本とは何ぞ?! 最終章

  さて、そもそも本とは何であるかを<本のド素人>諸氏に説くシリーズ最後である。初めての諸氏は双子の黒薔薇の刻印のページで最初からありがたく奉読するように。

 ジョルジュ・ドンが死んでから、あれほど熱中したバレエをまったく観なくなってしまった。稀代のダンサーがいなくなってしまったからではなく、生前最後の来日公演「ニジンスキー 神の道化」を目撃したからだった。
 この舞台は英語だったかでニジンスキーの手記が朗読され、それに合わせてジョルジュ・ドンが狂気のニジンスキーの過去の栄光と現在の絶望を交互に踊るといった趣向だった。演出振付はもちろんモーリス・ベジャール。時に1991年夏。
 おそらく世界で日本公演だけだと想うが、舞台の上部に横長の電光掲示板が据えられ、日本語字幕が流れていた。実際にどんな一節が使われたかは忘れてしまったが、手元の「ニジンスキーの手記」から適当に引用すればこんな具合だった。
「私は肉体である。私は感情である。私は肉体と感情の中に住む神なのだ」
 翌年病死するジョルジュ・ドンは、しかし、決して衰えてはいなかった。いつものごとく見事な肢体で空間を切り裂き、虚空に律動を刻むが如くに跳躍し、舞うたびに汗の飛沫が勇壮なる軌跡を描く。それでも、あたしの眸は電光掲示板の方に惹き寄せられていた。
 「ニジンスキーの手記」は何年も前に読んでいたはずだったが、暗い劇場に巨大な赫い文字として縷々流れてゆくそれは、あたしを心底震撼させ、魂を嬲り立てに揺さぶったのだ!!
「印刷は手書きと全く違うので、印刷のかわりに写真版で私の書いたものが複写される方がよい。人々に手書きが神から生まれたものなので、理解させたい。私は美しく書くことができる。しかし、完全でありたくない」
 壓倒的な言葉による空間の切り刻みと、高みへの跳躍と、奔放に迸る汗を浴びせられ、あたしはただただ打ちのめされ眸を見開いたまま茫然とするのみであった。やがて、下で踊ってるジョルジュ・ドンが邪魔に感じるようになってきた。なんだ!!このうるさくちょこまか動き回ってる男は!!!
「私は彼をわかっている。だから闘牛を彼に申し込むのだ。私は牛だ。傷ついた牛だ。私は牛の中にいる神だ。私はアピスだ。私はエジプト人だ。私はインド人だ。私は赤銅のインディアンだ。私は黒人だ。私は中国人だ。私は日本人だ。私は外国人だ。旅行者なのだ。私は海の鳥だ。私はトルストイの本だ。私はトルストイの根っ子だ。トルストイは私自身だ」
 なんと!そのうちにジョルジュ・ドンがまったく視界から消え失せ、邪魔でさえなくなったのだ!!あの絶対的な存在感を謳われた現代最高の肉体が、何ほどの手触りも残さぬ影法師へと解體されたのだ!!!!!
 言葉が、いや文章が肉体を凌駕する瞬間などというものを、此の時初めて眼前にした。云うは易いが、まず本物の肉体がなければ示すことのできない術だ。ジョルジュ・ドンの肉体の凄味はナマで観たことのある者にしか伝わりようがない。その現代最高の肉体派ダンサーが、20世紀最高、いやバレエ史上最高の肉体派ダンサー・ニジンスキーを見事に踊り上げてるというに、この手記はいともたやすく征服してしまったのだ!!!水鳥のか細き頸を手折るが如くに!!!
「せむしは神にふさわしい。私はせむしや、奇型が好きだ。私自身、感情と繊細さをそなえた奇型である。私はせむしのように踊ることができる。私はあらゆる型、あらゆる美を好む芸術家である。美は相対的なものではない。美は神なのだ」
 ニジンスキーよ!ニジンスキーよ!よおく判った、あんたは本物の天才だ・・・
 なかなか降りてこない、むしろ舞い降りるとその跳躍力を讃えられたあんたは、精神を解き放つことにより、誰にも手の届かないこんな高みまで飛翔していったのか・・・
 あたしはバレエ熱が一瞬にして雲散したと同時に、一冊の巨大なる本に對峙していることに気付いていた。いや、己が偉大なる本の胎内に抱かれていることに気付いていたのだ!!
 これはベジャールの意図したことではない。電光掲示板を設置した劇場でももとよりない。ニジンスキーよ!あんただ!あんたの仕業だ!!あの奇妙に本への渇望が綴られた手記を残したあんたが、ジョルジュ・ドンとベジャールを傀儡に遣って腑抜けた今世に齎した匕首なのだ!!舞踊に留まらず、つねに演出や美術にまでこだわったあんたが、劇場を一冊の本と化すことを史上初めて爲し遂げたのだ!!!観念としてならあったろうが、ジョルジュ・ドンの生き血を贄とすることで、ほんとにやらかしてしまったのだ!!!

 あの字幕付き舞台を観た者は一万人以上はいるはずだが、そんなあんたのメッセージを受け取ったのはこの絶望書店主人ただひとりだけだった!!その歪んだ電波を受信したのは!!!!!他の者にとっては、本屋で売っている「ニジンスキーの手記」をただ電光掲示板に流しただけのものに過ぎなかったのだ!!!!!!!!!!!!
 それからと云うもの、ニジンスキーの導きのままにとうとう世界の果てまで見せつけられて、あたしは本の世界が絶望的なまでに果てしなく広がっていることを識ってしまったのだ!!茫乎たる光景に慄然として立ち竦んだのだ・・・

 日本の出版システムがいまのようになったのは、たかだか70年前の円本からだと云う。それ以前は貸本屋などが主流であった。
 しかし、戦後も手塚治虫は主として本屋以外で売られていた赤本の出身だ。つい最近まで大衆文学やまんがの重要な部分は貸本としてのみ流通していた。いまでもコミケのほうが上等な本が並んでいる。円本だってかなりが売れ残って露店で叩き売りをやっていたらしい。
 少なくともこの日本では、いまも昔も本屋以外の処が本の中心だったのだ!!そして、その彼方には世界の果てが広がっている。
 新刊、古書に限らず、本屋に並んでいるのは文化住宅や文化庖丁の如き既製品の<文化本>に過ぎぬ!!出来合いのお仕着せでなければ味の判らぬ味音痴の諸氏は、文化などという甘ったるい添加物に依存するがよろしかろう。そうやって「これは本です」と教えてもらわないと本の区別がつかない可哀想な人々がいるのはやむを得ぬ。しかし、真に書に飢えたる豺虎はなんびともまだ踏み入れたことのなき漠漠たる曠野を目指さねばならぬのだ!!!
 世界の果てに辿り着いた者は少数ながらいるが、そこが世界の果てだと真実気付いたのはおそらく人類史上この絶望書店主人しかおらぬ!!!劇場まで出掛けても、目前の魂揺さぶる真実の本を読み取れぬようでは話にならぬ!!!本を読むとはどういうことか、諸氏もニジンスキーの電波をその身に受くるがよい!!!

 さて、ニジンスキーの先導により、世界で初めて採算が取れた──スタッフ全員がこれだけで喰えてるという意味で、広告なしでこれができているのはおそらくいまでも世界で唯一の──ウェブ・マガジンである絶望書店だが、ここに来て、史上まだ降臨せぬウェブ本というものの姿がようよう見えてきた。
 そこに真の一冊の本が顯現しても、しっかり眸を見開いておらなければ何も読み取ることはできぬ!!!そして、木を見ようが森を見ようが両方見ようが、死んだ魂には何も見えはせぬのだ!!!絶望書店が見事一冊の本として花ほころばんとしておるこの刹那、諸氏もいま一度本とは何であるかに想いを巡らし、臆せず追隨するように!!!
 切にしかあらんことを希う!!!!

(おしまい)        




絶望書店主人    






絶望書店日記に続く





 きちんとした理解のためには黒薔薇の刻印のページを一気に三回は読み返すように!!